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第三編 付属機関

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第一章 図書館

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はじめに

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 早稲田大学図書館は、その濫觴を東京専門学校創設と同時に設立された「図書室」とするところから、創立百周年の日(昭和五十七年十月二十一日)をもって、百年の歴史を刻んだことになる。明治三十五年に至り、初めて独立した施設を設けると同時に「早稲田大学図書館」と称し、以後大正十四年に現在の建物に移り、数度の増築を重ね今日に至っている。

 創設当初、校舎の一隅に三十平方メートルにもみたない部屋と、二個の書架に収まる量の図書をもって出発したが、昭和四十七年に全蔵書数は百万冊を超えた。昭和五十六年度統計では、百二十一万冊(全学の蔵書数二百三十万冊)を数え、これらが四万五千人の学生、二千人の教職員の教育・研究に供されている。さらに近年校友の利用者がとみに増えており、これらを含め一日平均三千人、繁忙期には五、六千人の利用者がある日本有数の大学図書館として内外に知られるようになった。

 創設当初から、学苑の経営の中枢を担う人々に、高等教育には優れた図書館が不可欠であるとの明確な思想と方針とがあったことが、こうした発展をもたらした原因である。またこのことと相まって、図書館の運用に携わった数多くの館員の知られざる努力があったことも忘れてはならないことである。

 今ここに図書館の歩みを、それらの諸先輩の足跡と収集された図書資料を中心にすえてたどってみたいと思う。

 図書館とても、明治十五年から今日まで、日本社会の変動とかならずしも無縁ではなかった。しかし、幸いにも関東大震災や戦災を逃れたことにより、図書館の蔵書は、創設時からのものの殆どすべてを今日に伝えている。大学は百周年を期とし、新しい情報化時代に適応すべく総合学術情報センター構想のもとで新中央図書館建設に着工したが、図書館のこうした遺産は、文化財としても次代に引き継がれるべきものであり、新旧相まっての諸機能が複合され、二十一世紀を目指す大学図書館として、社会の期待に応えるものでなければなるまい。

一 東京専門学校と図書室

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1 図書室の開設

 早稲田の地に開校した東京専門学校は、大隈侯の寄附にかかる木造二階建三棟の校舎をもって出発した。このうち二棟は寄宿舎、一棟が講義棟で、その二階の八畳くらいの一室が図書室とされた。そして、そこに備え付けられた一間半くらいの書棚二つに配架された図書をもって、早稲田大学図書館はスタートした。

 開校記念式に小野梓が、学苑の希望・抱負・態度を述べた「学問の独立」の演説は夙に知られているが、そこで「余ハ本校ニ向テ望ム。十数年後ノ後チ漸クコノ専門学校ヲ改良前進シテ、邦語ヲ以テ、我ガ子弟ヲ教授スル大学ノ位置ニ進メ、我邦学問ノ独立ヲ助クルアランコトヲ」と、将来の発展前進について言及している。小野の目指した大学部開設は、二十年後に実現するのだが、彼自身はその時を待たず夭折した。

 小野とともに盟主大隈侯のもとに馳参じ、学苑の創設とその後の維持運営、なかんずく図書館の発展に多大な功労のあった市島謙吉(春城)は、小野の理想と図書館との関係を次のごとく述べている。

免に角、斯る草創の際に、不完全ながら図書館ジミたものを設けたのは、他日専門学校を大学となすの抱負があったからである。申さば、左様な抱負から割出して図書館の種子を早く蒔いたのであるから、理想だけは誠に立派であったと言ふて差支あるまい。

 こうした理想を高く掲げてはいたものの、草創期の学苑には十分な施設設備と資料が整えられていたわけではなく、文字通り種子が蒔かれたにすぎないといってよい。

 施設について『東京専門学校創立廿年紀念録』に市島春城が回顧している個所を引こう。

其の時の学校の建物は、今〔明治三十五年当時〕の正門から右に突きあたった木造二階建ての一棟と、その裏の長屋建ての一棟とでありまして、長屋の方は専ら寄宿舎に充て、表の一棟は教場でもあり、事務室でもあり、図書室やら教員室やらであったのです。此の時集った生徒は八十人ばかりでありましてそれを四つの教場で教へたのですが、寄宿舎は、凡そ百人ばかりも這入れるやうになってゐたのです。当時の学校の規模は誠に小さいものでして、上棟の四室を教場に充て、また明間あったのですから、二階の講堂の一つに畳を敷き、これを高田君〔高田早苗〕、田原君〔田原栄〕の宿所に充て、其の隣りを書籍閲覧室に充てたのです。

 この部屋が八畳ばかりのもので、そこに書棚が二つしつらえられたが、そこに収める図書がなかった。当時の出納簿(明治十五年十月至十七年三月)には、教科書の支出の項はあるが、図書費の項目がない。そのため大隈家に蔵書の寄附を乞うたうえ、校長大隈英麿が米国留学から持ち帰った図書に加うるに、教職員に寄贈してもらったものを配架したが、まだ空きがあったという、「誠に見すぼらしい有様であった」というのが市島春城の述懐だった。

 現在の図書館蔵書を点検しても、この当時の図書室に架蔵された内容を正確に把えることはできないが、各分類初頭の図書に「大隈蔵書」「大隈氏蔵書印」の押されたものが多い。しかし、その利用が如何ようなものであったかはほとんど伝わっていない。これは、東京専門学校時代の図書室に関しての文書類が残っていないためである。

 前出の『創立廿年紀念録』は、明治三十五年に編纂されたもので、市島春城の談話とこれも図書室との関係が深かった同攻会の記録を中心にした記述となっている。そこで、早稲田大学図書館に至るまでの経過を、いましばらく同書と、同攻会の刊行物『中央学術雑誌』『同攻会雑誌』等に散見される記事をもってたどっておこう。

 開校一年の生徒数が二百十四名となったため、教室を増やす必要を生じ、図書室は同じ講義棟の一階に移された。高田早苗田原栄が使っていた部屋も明け渡された。二人は大隈侯の別邸に移った。

 明治十九年に、学苑の経済的独立を図る改革案が高田、田原、天野為之、市島らの手によって作られ、多大な財政補助を続けてきた大隈侯に建議された。これにより生徒の月謝一円を値上げ、月額一円八十銭とし、その代りに教科書を無償貸与とすることになった。学校はこの教科書用に、少なからぬ原書を買い込んだ。これがまとまった図書を購うため予算を設けた嚆矢といえる出来事だった。しかし、この購入費も実際には大隈家の寄附に頼らざるを得なかった。

2 図書室と同攻会

 図書館の草創期を語るに、もう一つの重要な事柄は、在学生の団体「同攻会」の果した役割である。当時の生徒の二〇パーセント近くが新潟県出身者であったが、彼等は同郷のよしみで、越佐懇親会を作り、弁論の修練を目的として励まし合っていたが、十六年の春ごろから各自が金を出して共有の図書を購入し、共同閲覧を始めた。このことが好評を博し、やがて翌十七年一月には学生有志の間に、「互に知識を交換し学術を講究し永く交誼を保持せん」とする企てが起った。全学の評議員、講師、学生六十余名の賛成者を得て、「以文会」(のち「同攻会」と改称)を結成した。その事業は、㈠内外書籍の閲覧、㈡演説討論、㈢雑誌の発行、㈣会合等であり、このうち最も力を入れたのは、図書の購入で、創立資金二百円をそのままこれに充てたのを見てもその意図が窺われる。この時、四分の三で新著訳書を、残りの四分の一で原書を購入することを決議し、四月から委員が手分けして府下の書店を巡り、計四十八部三百二冊を購入した。

 そしてこれに加うるに、前田健次郎の寄贈図書三十部五十八冊と会員の寄贈図書若干をもって同攻会寄託として学校の図書室に配架したのである。明治十八年五月刊行の「同攻会書籍目録」には、和漢書三百十六部九百五十二冊、洋書二十部二十一冊、雑誌・新聞十一部が記載されている。

 東京専門学校に集まった若人たちは、学校の事業を自分の事業のごとく思い、足らざるは自分達で補い完全なものにせねばという風潮が満ちていたという。同攻会の事業は、このことを如実に物語っている。学校は原書(洋書)を購入し、和漢書の収集は同攻会に委ねるという購入方法がこの後しばらくの間続いた。(明治二十四年五月には同攻会の所属にかかわる図書は三千三百九十六冊になった)。

 明治十九年四月ごろの図書館縦覧規則によると、午後十時までの夜間開室や午前に限られているが日曜日の開室も行っていた。夏と冬の休みは、それぞれ七月二十三日から九月五日、十二月二十九日から一月五日と定められていた。

 キャンパス内に寄宿舎があったことも理由であろうが、図書室がよく利用されていたであろうことは容易に想像される。また、旧職員や得業生(卒業生)の利用も、すでにこの頃から制度として設けられていた。初代の図書室長に今井鉄太郎(明治二十年九月―二十二年十二月)が就任したのもこの頃であり、ようやく制度として諸事が整えられつつあった。しかし、八畳の一室では、手狭であり蔵書も入室希望者も収容しきれない状況の中にあった。

 この時期に学苑充実の途上における画期的な出来事として、煉瓦建二階の大講堂の竣工があった。工費二万円を超えたといわれるこの建物は、大隈侯が学校当局者に無断で建てて寄附したもので、二階を講堂、一階を図書室として造られていた。手狭になった図書室は、早速この大講堂に移ってきた。

 四万冊収容できる書庫、五十席の閲覧室および事務室からなる新しい施設で、ともかくもこれにより図書館らしい一応の体裁は整ったのである。この施設は、以前にくらべ約三倍のものとなったが、発展を続ける学苑の教学を支えるものとしてまだまだ不十分であった。図書室としての図書購入費を特にもっていたわけでないし、事務員は給仕を含め三名にすぎなかった。

 現図書館書庫にある蔵書のうち、受入日付が明記されているのは、明治二十三年四月以降で、この頃から蔵書印の押捺など図書の装備をはじめとする整理作業が体系的になされたものと思われるが、当時の原簿など帳簿類は残っていない。明治二十五年四月、図書室の専任者となった石井藤五郎(安政二―大正十四)の書き残した物によると、一冊の備忘録に一切合切書きこんで、一人で八人芸をやっていたという状況だったらしい。市島春城の回想に、新しい施設の中で事務室が一番条件が悪く、白昼でも薄暗い中で頑張っている光景は至極哀れなものだったとある。草創期のこうした先輩の一歩一歩の積み重ねが、今日に連なるものと銘記しなければならない。

 この辺の事情をもう一つの資料、同攻会の記録から見てみよう。同攻会は邦文図書の購入を事実上分担していたが、生徒の最も希望するのもそれらの新刊書であった。同攻会の図書であるから、会員が優先するのもまた当然であったわけで、閲覧のために会員となる生徒の数が増えたという。会員の払う会費が図書購入費となったのであるから、会員数の増加は図書室の充実に結びついたこととなる。

 同攻会は、会長に本校幹事があたり、副会長は寄宿舎長が兼務するというのが慣例であった。しかし、図書の購入、整理、閲覧に関する事務は、図書室の事務員が行っていた。利用の状況は、多いときで一日約四百冊、少くて二百冊程度、閲覧者は五十人から百人くらいというところであった。今から見ると少ないと思われるが、当時は学校の規模もさほどでなかったから、かなりの利用度であったといえよう。

 明治二十七年、同攻会は例会をもち、図書室の拡充と図書目録の編纂刊行の方針を決めた。『同攻会雑誌』を改称した『中央時論』第九号(十二月号)の附録として所蔵図書の目録を刊行すると同時に、同号に左の決議書を掲げた。

同攻会臨時会決議 稟告校友諸君

諸君予告の如く本会は去十一月二十七日臨時大会を開き本会拡張の策を講じたる書籍購求の事たる本会の目的を達する条項の要部を占め又已往の実験に徴するも図書室が会員を利益したるや頗る大なるを知る然るに本校補助金は一昨年以来中止せらるるの場合に立至り十分書籍の購入を為す能はざるを以て本会は左の決議を為したり

本会は本会図書室拡充の為め校友中有志の志に就き年々応分の寄贈(金円又は書籍)を請はんとす

校友諸君は奮て右趣旨に賛同し本会の目的を貫徹せられんことを切望す

但募集は本会委員に託したるを以て委員は在京校友諸君を訪問(必ず本校及本会証を携帯)すべしと雖ども在地方の校友諸君は金円は本校に託するを以て受取証は本校会計吉川義次氏より差出すべし

明治二十七年十二月 東京専門学校同攻会

 こうして目録を公刊し、図書室の充実を広く呼び掛けた。この結果、早速関係者の賛同を得て、統計学の呉文聡講師より専門書の寄贈があったりしたほか、校友西川太次郎より実業団体の報告書の寄贈や寄附金が寄せられた。

 ところでこの時の蔵書目録は、学苑の図書の目録として最初のものであった。記念すべきこの目録について触れておく必要がある。

 標題は「東京専門学校図書室・同攻会図書館図書総目録」(明治二十七年十二月十日現在)とあって、本文は五十九頁で、東京専門学校図書室目録と同攻会図書目録からなっている。専門学校図書室が一千二百五十六部、二千七百五十三冊、同攻会が九百三十部、二千二百五冊で、このほかそれぞれ百十六種、二十一種の新聞雑誌が目録に掲載されている。量として政治、経済、法律分野のものが半数近くを占めているのが特徴である。

二 図書館の開設と進展

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1 図書館の建設

 明治三十年代は、学苑の発展史上画期的な時代であり、同時に図書館にとっても大いなる飛躍の時期となったのである。三十年七月に行われた東京専門学校十五周年祝典で大隈侯は、学科を増やし内容を充実させていけば、創設当初からの念願である大学を誕生させることができようと述べた。学校経営者側もこの方針に基づき、諸般の準備を整えていたが、いよいよ大学設立に踏み切るようになったのは、三十二年八月に私立学校令が発布されてからのことであった。それまで諸学校通則(明治十九年四月)による専門学校であり、高等教育機関としてはまだまだ教員免許、判事試験資格、徴兵免徐等の特典が帝国大学に比較して格段の差があった。三十三年に、関係者は私立大学の体裁を整え、これを政府に認めさせる決意を固め、このための臨時評議会を開催した。そこで、大学部設置を目途とした職務章程の変更を行った。ここで財務、幹事等とともに図書館長に関する規程が定められ、学苑講師浮田和民が嘱任された。続いて、大学部設置の具体策として寄宿舎、図書館、教室の新増築を決め、募金活動を展開した。この時の目標額は三十万円であったが、三十五年十月の大学開設まで三十八万円が集まった。当時すでに在学生一千有余名、校友二千三百余名に及んでおり、二十年の歴史が実績として認められ、かつ、今後の発展に対して期待が寄せられるところが多かったのである。

 この募金をもとにして、特に急務であった新図書館の建設に着手した。明治三十年代に入ると、図書室の収蔵力は限界を超えていた。それにもかかわらず、寄託図書(坪内逍遙小川為次郎市島春城等からのものなど)をはじめ、寄贈、購入の図書はますます増加する一方であった。これらの図書を収容する書庫と利用者のための十分な閲覧室を建設し、同時に諸制度を整え、開校する早稲田大学の中心となる図書館設置へと進んだのである。

 明治三十五年夏に、書庫と閲覧室の二棟からなる新図書館ができ上がった。この時期に、その後の図書館の発展に多大な功績を残した市島春城が館長として就任した。市島は、高田早苗らとともに草創期より学苑に係わってきたが、明治十八、九年に政治原論等の授業を担ったほかは、専ら校務を中心とした経営面で活躍した。この頃新潟県選出の衆議院議員だったが、前年に喀血したため政治活動を断念し、高田の要請を容れ館長に就任した。八月に着任して、早速新館の設計者保岡勝也らと内装、調度類の設計について協議をする一方、諸制度およびその運用について学内外の関係者と活発に意見交換を開始した。これらの様子は、市島が残した日記に克明に誌されている。

 十月に東京専門学校は早稲田大学となった。そして、新設の独立施設をもった早稲田大学図書館もここに誕生した。

 書庫は煉瓦造で三層からなり、延面積五十四坪。中央に防火壁を設け、各層を左右二室に分けて、すべて六室とした。ここに高さ七尺、間口八―五尺の書架を各室四十台ずつ、計二百四十台設置し、収蔵能力は二十一万冊であった。また書庫内に全層を貫く書籍昇降器左右各一基を設けた。

 館長室と事務室は書庫に接して建てられ、同じく煉瓦造り平家(一三・八坪)であった。

 閲覧室は、別棟で木造二階建、延百二十五坪であり、書庫と閲覧室の間は渡り廊下で結ばれた。広間中央に出納壇、その周辺に新聞、雑誌、閲覧席、図書目録(既にカード式となっていた)が置かれた。この棟には特別閲覧室、研究室も設けられており、すべてで収容人員五百名であった。木造ということもあろうが、閲覧室はすべてカーペットを敷き、遮音に注意が払われていた。

2 初代図書館長市島春城

 市島は明治三十五年専任館長に就任、以後大正六年まで十五年間の長きに亘り館務に携わり、図書資料の収集、諸制度の整備に力を注いだ。また、館蔵資料を活用し、展覧会や出版などの文化的事業を時宜を得て行った。

 当時の館員は加藤万作、石井藤五郎ら十名程がいた。市島の家に寄宿していた吉田東伍がときおり館務を手伝うこともあったことが日記に散見される。またこの頃ちょうど募金のため関西、横浜、北海道に長期出張をするが、旅先から書状で館員へ業務の指示を行ったり、館員から報告を受けたりする記事もある。

 市島がまず手掛けたことは、図書の収集とその整理であった。明治三十五年から三十六年にかけて、これまで大きな役割を果してきた同攻会が、図書館が新発足したのを機にそれまで図書室に寄託していた所蔵図書(二千百五十五部・四千百二十三冊)を寄贈したので、これの受入れと整理、市島自身の寄託図書七千余冊、その他の寄託図書、年度内の通常の購入・寄贈図書の整理など、すべて一万五千冊を処理した。

 またこの前後に、清国留学生監督・銭恂より寄贈の漢籍二千四百余冊、帝国大学教師ルードウィヒ・リースから購入したドイツ書を主とする二千余冊も整理され、新館の書架に並んだ。そして、これらの蔵書を利用に供するため、冊子目録の編纂を計画、和、洋の二冊の蔵書目録を刊行した。和漢の部は、明治三十五年十二月現在を収載し、三十六年七月に刊行した。大きさは二十二・五センチで、構成は、凡例(四ページ)、目次(四ページ)、本文(四八二ページ)、附・図書館規則となっている。奥付には、定価六十五銭、編纂者加藤万作、発行者石并藤五郎となっている。字音仮名遣いは明治三十三年文部省令第十四号により、上欄に書名索引、下欄に分類別の配列になっている。

 続いて、洋書目録が明治三十六年九月に発行(編纂者石井藤五郎)された。序・目次に続いて本文(二七八ページ)からなっている。こうして、収蔵書の整備、次にカード目録と照合整備、明治三十六年から三十七年にかけて講師室に著者名カードを設置するなどした。また、和漢書では、特に必要な細目の整備を手掛けた。

 こうした蔵書目録を冊子の型で刊行することは、利用者へ所蔵情報を伝える最良の方法であったと同時に、図書館の蔵書構成を考えていくうえでもきわめて有効な手段であった。

 この蔵書目録の発行に続いて、各年度ごとに増加する図書の目録を編纂し、利用に供した。増加図書は、『早稲田学報』の記事として掲載されたりもしたが、謄写版で和漢書の部は明治四十年一月までに二十余冊を刊行、続いて第二次謄写版(大正二年十月・明治四十年一月―四十一年六月分)、第三次謄写版(大正三年四月・明治四十一年七月―大正三年六月分)を発行した。洋書も明治四十四年やはり謄写版の分類目録が刊行された。

 こうして制度や目録を整備する一方、市島は図書資料の収集に力を注いだ。『春城八十年の覚書』に、幼少の頃から図書に趣味があったと言っており、「毎月図書の買出しには琳琅閣に出張して、多くの和漢書を買収し、朝から晩にまで及んだことが幾回もある。毎度購書金額が予算を超過し、自ら資金を募集して、勘定尻を合わしたこともあった」とその当時を回想している。和漢の古書が、だんだんと失われていくことを惜しむと同時に、文化的遺産として後に伝えるべく、大学の図書館に所蔵しようという強い使命感が窺われる。版本のみならず、写本、資料類に至るまで、市島が自ら書肆の店頭で選び、大学図書館に収蔵したのであった。

3 収蔵資料の増加

 明治四十年十月、学苑創立二十五周年を迎えた。この記念祝賀行事として、図書館は館蔵資料の展覧会を、「図書十万巻記念展覧会」の名称で催した。ここにおいて、わが国の図書館の発達や書物の歴史を語る資料を、総数千六百点を出品した。

 市島は、図書館長としての楽しみが二十五あるとし、これを“二十五快”として書き残している(付記一参照)が、その一つに収蔵する図書数が十万を突破することが挙げられている。創立二十五周年記念を祝すと同時に、発展する図書館の一つの段階の区切りとしての展覧会でもあった。就任時の蔵書量が約五万冊程と推定されるので、五年間足らずで倍増したことになる。なお、館長辞任の大正六年度には、和漢書十三万四千五百三十六冊、洋書三万六千二百八十九冊、計十七万八百二十五冊となっている。

 今から見れば古書あさりの好きな市島らしく、一面何でも入れたことは否めないが、写本、刊本の和本に漢籍、中には弧本といわれるものも数多く入っている。しかし、一方では基本書の収集にも努めた。外国書籍がまだまだ手に入りにくい時代だったが、日本図書館協会で、そうした状況を打開すべく発議するなど、条件整備にも努力した。

 大学の拡張は、明治三十七年の商科、四十一年の理工科の設置と続くが、すでに明治三十六年、閲覧室階上に標本室を置き、歴史地理参考品、鉱物化石標本を陳列。明治三十七年には、商科教授用標本収集も始め、これらを陳列した。そしてさらに、商業系、理工系図書の収集にも取組んだ。

 この頃の収書で幾つかの特徴的なものを掲げると、まず第一に国宝に指定されている『玉篇』と『礼記子本疏義』が挙げられる。この二書は、元宮内大臣田中光顕の寄贈によるものである。これが思いがけなく本大学図書館が所有するに至る経過は、市島の随筆の中に興味深く描かれている(付記二参照)。

 また、文庫としては、清朝の詩文集を集めた漢詩人野口寧斎の旧蔵書である寧斎文庫(五千百冊)を明治三十八年に、明治四十四年には、校友下村正太郎旧蔵の明版を含む中国の史地書を集めた下村文庫(三千百十一冊)を設置した。さらに大正二年には、東洋研究、特に仏教研究をしていた英国人E・A・ゴルドン夫人の収集した資料(千四百四十三冊、五百八十六点)をゴルドン文庫として設置した。こうして、購入・寄贈を間わず両両相まって図書館の蔵書構成がなされていったのである。

 市島にとって、大学図書館所蔵資料が次第に整えられていくことが楽しみであった。自ら挙げた二十五快のうちの十五項目にそれが見られる。図書費の増額、不時の図書費収入、写本作り、十万ごと突破の冊数、欠本が埋まる、紛失図書の発見、雑本の中からの貴重書発見、題簽書き、蔵書捺印、必要図書の収蔵、廉価な佳書の入手、図書調査に欠のない時、他館にない稀覯書の収集、善本の寄贈・寄託、館本が社会に役立つ時など、以て喜びとしている。二十五快の前文には、時には近辺の旗亭に立寄り、本を傍らに侍らして祝杯を挙げたり、また求め得た本を珍客と呼び、寝所まで持込んでこれを接待することが道楽であるとまで述べている。この市島の喜びは、後世のわれわれにさらに大なる喜びをもたらしてくれたのである。

4 図書館の運営と文化事業

 開館当初、次に手掛けたのは、図書館経営である。大学開校に合せて図書館規則の整備、改訂がなされたが、その中の第二節閲覧人のはじめに(第四条)「本館収蔵の図書は、本校講師、職員、校友、学生、校外生の閲覧に供する傍、広く公衆に閲覧を許す」とある。実際には、明治三十七年十一月から日曜日のみ広く公衆に開放したが、さらに三十八年一月からは、毎日公開するようにし(ただし、一日だけの閲覧)、婦人席の設置、特別席、喫煙室の整備、あるいは暖房工事などを行って、積極的に利用者の便宜を図っていた。現時点では、規則にある校外生制度もなく、また一般にはまだ公開していない。明治後期頃の図書館事情、特に公共図書館の未発達と、本大学図書館が当時としては未だ余裕のある施設であったという事情から、公衆に開放することが可能だったものと思われるが、それにしても、英断というべきである。なお、校友についての利用は、一般閲覧者として認めていない大学もあるが、本学では現在でも一貫して規約上明記された閲覧者となっている。近年卒業生の入館証発行も多く、土曜日の来館者は特に多い。さらに、閲覧時間についても、明治三十八年の改正で、日曜・祭日・夏期休業中も開館をし、積極的な活動をなしていた。開館日、開館時間は、祭日を除き、そのまま今日まで承け継れてきている。

 こうした図書館利用者サービスへの積極さは、市島館長の言う、閲覧者満員の喜びへとつながっていく。逐年利用状況一覧表によると、開館日数は明治三十六年の百八十四日に対し、徐々に日数を増加させ、三十九年の二百四十八日、四十三年の三百十日、四十四年には三百二十三日となっている。それに従って閲覧貸出人数も三十六年の約五万人が、三十九、四十年頃には約十六万人、四十一年以降が、八万から九万人となっている。一日平均にすると多い年で六百五十人、四十年以降は三百人前後である。閲覧図書数を見ると、三十七、八年頃の二十三万冊、二十七万冊(一日平均約一千冊)で、四十年以降でも大体二十万冊前後となっている。三十八年から四十年の盛況は、商科・高師の増設、清国留学生など学生数の増加によるものと思われるが、蔵書の増加とともに利用者の多くなることは、大学における図書館の確立と、その発展ぶりを示すものである。

 なお、館員は、明治三十九年末には十四名を数え、他に写字生三名、出納手五名、火夫一名、小使三名で計二十六名になっていた(『図書館雑誌』明治四十年十月号)。明治四十年十一月、満五年以上勤続者が大学から表彰された中に、図書館からの五名も含まれていた(『早稲田学報』明治四十年十一月号記事)。

明治二十五年四月就職(一五・七) 石井藤五郎 明治三十四年九月就職(六・一) 加藤万作

明治三十五年八月就職(五・二) 藤田覚次郎 明治三十五年九月就職(五・一) 松山真琴

明治三十五年十月就職(五・〇) 赤池彦造

 市島館長はこうした活動のほかに、各種展示会の開催を実施した。先に述べた図書十万巻記念展覧会のあと、小山田与清展覧会(明治四十一年三月)、滝沢馬琴展覧会(明治四十一年十一月)、近松文学祭(明治四十二年十月)、講義録展覧会(同上、同時開催)と、それぞれ自筆本、刊本の関係書を展示し、能楽源流表彰会(明治四十三年六月)、夏期講習会図書展覧会(明治四十四年七月)と、時には講演会などを併せ毎年続けて開催した。明治四十五年五月には、文明源流表彰会として洋学関係図書を本館および各所蔵者から特別出陳を受け、その数八百余点、学内外からの賞賛を博した。さらに大正期に入って、江戸美術展覧会(大正二年十月)、日本経済叢書刊行会展覧会(大正三年三月)、全国中学校長招待会展覧会(大正四年十二月)、沙翁三百年記念祭(大正五年四月)など各分野にわたり毎年一回、市島館長在任中に十一回も開催している。これらは図書館というより大学の主催に近いものであったが、準備から開催まで、少い図書館員で館務を遂行しながらの成果であった。

 また外にあっては、大隈侯を会長に戴いた大日本文明協会の創立と活動、明治四十二年、早稲田大学出版部(部長高田早苗)の主幹として校外教育事業の担当、あるいは国書刊行会の明治三十九年以降の名著の出版(国書刊行会叢書全八期二百五十八巻二帖、市島の基礎づくりは四期ごろまでという)など、広く日本の文化興隆に寄与した諸活動を行った。また当時、今日ほど目立たなかった日本における図書館活動の基礎づくりに積極的に係わったことも見逃すことはできない。

 図書館の全国組織として日本図書館協会があり、本年は創立九十周年を迎えているが、その前身である文庫協会に、館長就任の翌三十六年に参加した。まだこの頃はどちらかといえば懇談会的、社交的な一部のグループだったが、明治四十年には会長に就任、四十一年には会名を現在の日本図書館協会と改正、その後の活動を通じて名実ともに全国的な団体に発展させた。初代の会長として『図書館雑誌』の創刊(四十年)、図書館事項講習会の開設(四十一年)、和漢書目録編纂概則の公表(四十三年)などを実施したり、あるいは公共図書館の諸施策の協議、職員養成所標準図書目録の編集発行の協議、目録規則修正委員会の開催、図書館専門語編纂の協議、ベルギー万国書史学協会への加盟など行っている。

 なお、市島の図書好きは、各種の随筆(『随筆頼山陽』、『随筆早稲田』など再刊を合せ二十二冊)に叙述されてある通りで、個人としての収書も多く、印・豆本・書翰・拓本など多趣味であった。』方非常な健筆家で、今日、図書館には抄録随筆類が、『桃浪記』(明治十三、十六年)以下『養痾漫録』(昭和十五―十六年)まで、五百六冊・一巻、日記は、明治十九年から昭和十三年まで百二十五冊、意見、回顧録、雑録など約百三十三冊・二巻一帖、他に家事控、蔵什記などがまとまって収蔵されている。また自ら集めた張込帖、雑纂などもあり、今後の活用を期待される資料である。本大学では、昭和三十五年に市島春城先生生誕百年記念祭を行った。

付記一 市島謙吉(春城)の二十五快について(「古書あさり図書館生活」趣味談叢8『春城随筆』所収)

自分は曾て図書館を管理した時、書物を愛する上に愉快を覚える場合を数へ立てゝ見たことがある。一個人の場合と図書館にあつて書物を取扱ふ場合とは聊か関係も違つて来るが、しかし書物を取扱ふ人にとつては私蔵でも他蔵でも愉快は同じでなければならぬ。外界から見ると毎日々々書物をイヂクリ廻してゐるのは味もない様に思ふであらうが、実際は然らず、図書館生活には他人のえ知らぬ愉快もある。愉快があればこそ其職に退屈せずに居られるのである。即ち試みに二十五快を左に列挙する。

一、新館完成の時           一、不時に図書費の収入を得た時

一、図書費の増額を得た時       一、数年を費した目録カードの脱稿した時

一、数年を要した写本の成りたる時   一、練達の館員(司書)を得た時

一、図書整理に段落を告げた時     一、図書調べの結果一冊の「欠」もなき場合

一、図書の数、十万を突破の都度    一、館本の他館本に比し優りたる時

一、欠本の完本となつた時       一、他館に無き稀覯の書を得た時

一、紛失の図書の発見された時     一、佳本の寄贈、寄託を得た時

一、雑本より貴重書を発見した時    一、管理法、分類法等に新工夫を得た時

一、修理成りたる整本に題簽を録する時 一、閲覧者満員並に図書の収穫多き日

一、新購書に蔵印を捺す時       一、近火に災を免かれた時

一、不備を感じた図書の備はつた時   一、或重要事件に館本の大なる働きをなした時

一、廉価に佳書を購ひ得た時      一、年度末に顕著な成績を発表し得た時

一、会心の陳列を為し観者を喜ばしめた時

付記二 田中光顕と館蔵国宝

館蔵の『礼記子本疏義』(巻五九)一巻と、『玉篇第九残巻』一巻は、昭和六年に国宝(旧国宝)に指定され、戦後にも『礼記』が昭和二十七年十一月『玉篇』が昭和二十七年六月再指定(新国宝)を受けた。ともに市島館長の時に田中光顕から寄贈を受けた図書である。さらに、田中光顕からは、『東大寺文書』(天平勝宝―延喜年間十五通)(旧国宝)と『維新志士遺墨』一四三点も寄贈されている。

『礼記子本疏義』(巻五九)は、礼記の喪服小記第十五の疏義(注釈書)で、巻首数行を欠いているが、巻中にある灼案、灼謂、灼又疑等の語があることから、皇侃が撰したものに陳・鄭灼が補訂したもので、六朝時代の名儒の諸説を伺うことができる貴重な典籍である。そして、「字体書風より見て唐初を下らぬ書写であろう」と『国宝事典』(文化財保護委員会編)に書かれてあるが、この複製本を公刊した羅振玉は、六朝梁の人の手になるもの、あるいは、市島館長は、本書に少なからず見られる塗抹から皆普通写字生輩のなし得ざる所にして、明らかに撰者原稿の面目を存するとしている。とすれば、本書は六朝写本であり、佚存の外典としては、他に類をみない貴重さがうかがわれる(洞富雄「六朝写本 礼記子本疏義始末記」『早稲田大学図書館月報』5号

昭和二十六年十一月参照)。なお、本書は、巻尾に光明皇后の「内家私印」の朱印があり、早くからわが国に伝来したことを示している。

本書は明治二十三年下谷池之端の古書籍商琳琅閣に現われ、当時、しきりに古書漁りをしていた中国公使黍庶昌の目に止まつたが、一日違いで、日頃この書肆を訪れていた学僧島田蕃根が、かかる珍籍を国外へ出してしまうのは甚た残念と、田中光顕を説いて横合いからこれを買取つてしまつたという。そして明治三十九年、市島館長は、田中光顕が、コロタイプ版に複製して同好の士に頒たれていることを聞き、「田中伯に書を寄せて複製本の寄贈を請うたところ、伯は一通の書状を添へて無雑作に本書を贈られたので私は一驚を喫した。伯の書状には、これほどの稀覯書は図書館に於いてこそ永く保存も出来る、自分の手に在つては散佚せぬとも限らぬから寄贈するとあつた。私は此時ほど喜んだことは無かつた。驚喜といふ語は、こんな場合に用ひる言葉であらうとしみ〲感じた」(市島謙吉『春城漫筆』)と、館蔵になる経緯を述べ、その喜びを語っている。

次ぎに『玉篇』は、梁の顧野王が大同年間に撰した字書で、中国では早く散佚しているが、館蔵分は、巻第九言部第九十二の〓字から幸部第一一七の執字に至るもので、首尾が欠失し、巻中にも三ヶ所の脱落がある。紙数三十枚、唐初の書写で、玉篇残巻のうち、もっとも所収の字数が多く、巻子本で全長十三メートル余に及んでいる。(縦二七・一センチ、全長一三〇六・〇センチ)

本書の紙背には治安元年(一〇二一)八月書写の金剛界私記一巻があり、その伝来を示しているが、明治三十九年、田中光顕の手に帰したものである。「大正三年、伊豆長岡の高田早苗総長の別荘で、市島、田中の両氏が初対面した時、またしても、原本『玉篇』を寄贈する約束が両者の間で成立した」(洞富雄前掲書)。そして、この時、『東大寺文書』(一五通一〇巻)も寄贈されたのである。すなわち、「大宅朝臣賀是万呂奴婢見来帳」、「相模国朝集使解」、「相模国司牒」(二通)、「東西市庄解」(天平勝宝二至八年)、「越中国司牒」(天平神護三年)、「普光寺牒」(神護景雲四年)、「大宅朝臣船人牒」、「出雲国国師牒」(宝亀三年)、「大和国添上郡司解」(延暦七年)、「東大寺三綱牒」(延暦十五年)、「太政官牒」(大同二年)、「相替家立券文」(弘仁七年)、「謹解申売買立券文」(貞観十四年)、「東大寺僧慶賀申状」(延喜十一年)で、いずれも奈良・平安初期の貴重な古文書である。

さらに、昭和二年に『維新志士遺墨』の寄贈を受けた。本遺墨については、維新志士遺墨展を開催した時の陳列目録に、その寄贈の経緯と田中光顕の心情が示されている。

田中は、久しく明治大帝の側近に侍し、常に切腹の覚悟で忠諫を致したが、大帝の恩寵を懐ふと同時に、大帝を補翼した同志の士を追慕し、多年其遺墨を蒐集して代るがわる壁間に掲げ、忌辰には必らず焼香して追敬の情を尽くして来たが、感ずる所あつてその大部分をわが学苑の図書館に寄贈し、一部を青山会館および郷里の図書館に寄贈された。で、わが図書館では、受贈後、忌辰毎に順次これを大隈会館壁間に掲げ、田中の志を継いだ。近頃では、時に応じて展観し、教員学生の観覧に供している。

内容は、歌、書、詩画、尺牘、色紙、短冊等で、安政の大獄、梅田・坂下・寺田屋事件、大和義挙、七卿落、生野銀山義挙、元治禁門事件、筑波山事件の関係者をはじめ、公卿、諸侯、幕臣、学者、歌人、勤皇僧など、維新志士のほとんどすべての遺墨を網羅したものである(『半世紀の早稲田』他参照)。因に田中光顕は、天保十四年、土佐藩士の子として生まれ年少にして維新に活躍し、明治政府の要職を歴任、西南戦役の征討軍団会計部長、陸軍省の会計監督長、明治三十一年宮内大臣になり在任十一年、その宮中に奉仕すること、前後十八年に及んでいる。宮内大臣辞任後は再び世に出ず、昭和十四年逝去。享年九十六歳であった。

なお、田中光顕(青山)は市島謙吉が図書館長をやめて隠退したと聴いて、次の歌をよんでいる。

愛でて守る人しあらねば千代の書

しみのすみかとなりやはてなむ

三 大正期の図書館と新館

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1 図書館点描

 大正六年八月、市島館長辞任のあと、中島半次郎が図書館事務監督となった。同年九月、吉田東伍が新たに事務監督に就任したが、翌七年一月、病歿したため、平沼淑郎が館長事務取扱となり、一年後の大正八年三月、第二代館長に安部磯雄が就任した。

 市島謙吉は、「自分が図書館長を罷めたのは、大隈後援会の会長となって総選挙に携った時であった」(「春城覚書」)とある。まだ市島館長時代の大正元年十月、山崎直三を副館長に、大正五年五月、湯浅吉郎を顧問に嘱任した。湯浅吉郎は、たまたま京都府立図書館長を辞めた時であった。公立図書館界の人であるが、その経歴に見られるように内外の図書館に精通した人で、その知識を大学図書館に注入しようとしたわけである。湯浅は、大正八年二月まで在任した。また後に館長事務取扱となった平沼淑郎は、大正四年九月、洋書顧問に嘱任されている。吉田東伍は、市島謙吉に早稲田大学に招かれ、その学殖を十分に発揮し、『大日本地名辞書』等の著作を成し遂げた後であるが、館長職はわずか在任五ヵ月に過ぎなかった。『大日本地名辞書』の筆書きの原稿はすべて本館に遺贈され、戦後、本館で展示会を開催したところ冨山房の目にとまり、補遺を含めて改版され、今なお多くの人に利用されている。以下この頃の図書館点描を幾つか紹介しておこう。

 大正六年十月刊行の赤木充二郎著『早稲田物語』に、図書館の写真とともにその状況が次のように描写されている。

図書館に這入ると、階下の図書室は、人が一杯に込んで騒がしい空気が漲つてゐた。這入つて来る人、出て行く人などが、そこここにうろ〱と動いてゐた。

階上に行く階段を昇ると、とん〱といふ音が静かな周囲に響き渡る。二階の広濶な閲覧室は人の出入りが繁くないのでひつそりとしてゐた。

 赤木は、このように、静かな図書館で真摯に勉学する人々を的確に描き出しているが、さらにその頃早稲田大学に学んだ井伏鱒二は、その作品『上京直後』において図書館の印象を次の如く綴っている。

私は大正六年八月下旬に初めて上京した。(中略)私は初めて学校の図書館にはひつたときにも、度胆をぬかれて潔くあきらめて外に出た。初め私は図書館にある文学書をみんな読破しようと思つてゐたが、怖るべき書物の数のカタログを見て、たうてい五年間や六年間では読みつくせないことに気がついた。どうせ読めないなら、読まうとしない方がいいとあきらめてしまつた。それに図書館の事務員は不親切なので面白くなかつた(註、大正六年の蔵書数、約十七万冊)。

 井伏は、その頃の地方出身者の一人の見た図書館のイメージをこう描いているが、さらに――

早稲田の図書館が今のやうに面目を改めたのは、私が学校を止してから後のことである。私たちのときには食事に行くにも便利が悪くて閉口した。しかし私は図書館にはひつても、たいていは机の上に本を積み重ねて昼寝をした。

私は九月上旬に早稲田に入学したが、学校には高田派と天野派が対立して大騒動が起つてゐた。学校の事務所は窓硝子など滅茶々々にたたき毀されて事務員は外に追ひ出された。

と、この当時の図書館の内外を回想している。

 大正九年、大学は従来の専門学校令による大学から大学令による大学となった。この直後、大正十年の文部省の「全国図書館に関する調査」(大正十一年十月)が、『慶応義塾図書館史』に編者の抜萃として引用され、当時の他の図書館との比較に便利なのでそのまま引用する。

第七十表 全国主要大学図書館に関する調査結果(大正十一年)

2 新館建設

 関東大震災の被害は、図書館には及ばなかった。当時書庫の責任者であった石井藤五郎の手記が残されているので、その日の様子を紹介しておく。

大正十二年九月一日、予は八月中の貸返の証書を書庫ニ調査し居りしに、午前十一時五十五分に書庫大に震い出でしも、大した事はあるまじきと尚も調べ居りしに、棚上の束ねた書籍落しかば大に驚き、庫内より廊下に出でしに、人ハ皆広場に逃げ出て居り、誰も見へさりしかば、予も窓より飛出でたり、予は平生腰あしければ、窓の下に注意し、アハテ、草履をぬきてて跣足にて広場に駈け走り人々の居る所へ行きたり(『消閑録』)。

 この時、大学の建物としては、応用化学室の焼失と煉瓦造りの大講堂の崩壊があった。「地震止むかと思ふ間もなく東京市中は大火と」(前掲書引用)なったが、幸いに図書館には被害がなかった。

 本館蔵資料(「本間文庫」本間久雄旧蔵書)の中に、坪内逍遙の「大震災即感の歌」五首がある。その詞書に「三百年の文化一夜のうちに灰燼となりて江戸も東京も故の土の原となれりけるに、わが住むあたりは、不思議にも其厄をまぬかれたり。災後四日、かねて死後の寄附を家人に命しおきぬるわが蔵書一切を早大図書館に贈るとてよめる」とある。逍遙の震災の歌は他に五首あり震災の怖ろしさを歌に托しているが、後に逍遙の書籍は図書館(逍遙文庫)と演劇博物館に寄贈され、今日まで継承されている。

 大正十二年十月、安部磯雄館長が辞任し、第三代館長に林癸未夫教授が就任した(昭和二十一年六月まで在任)。

 市島謙吉は、かねてから図書館の拡充を望み、大学にふさわしい新図書館建設を考えていたのは、私立大学として更なる発展のための土台作りを企図していたためである。館長在任中の大正四年九月に、御大典記念事業の一つとして図書館閲覧室移転改築の理事会の決定がなされていた。その後、大正九年、新大学令の施行により、本大学は名実ともに大学となった。理事者は、この機会に諸施設の拡張をなそうとしていた。特に図書館は、その蔵書量(大正九年、二十万冊を超えた)が急激に増加してき(大正八年までは年間約六千冊前後であったが、九年度一万一千余冊、十年度五千六百余冊、十一年度八千四百余冊、十二年度二万五千八百余冊、十三年度九千七百余冊)、また、学生数の増加により図書館閲覧者が恒常的に増大して行くのに反し、書庫、閲覧室の狭隘さは覆うべくもなかった。ここに一大図書館の建設が大学にとっての急務となったのである。

 大正十三年、先の閲覧室棟の移転計画の決定を改め、定時維持員会において、御大典記念事業の一部として、図書館の新築を決めた。同年四月十二日に、現在の図書館の場所に地鎮祭を行い、直ちに着工し、大正十四年十月に落成、同二十日に開館式を挙行、二十五日から閲覧を開始した。

 新図書館は、設計・監理を内藤多仲今井兼次が担当し、鉄筋コンクリート造りで、当時としては延千百九十五坪(三九四三平米)の一大建築であった。その後二度に亘る増築で現在の図書館の姿となったが、この時は、書庫部分は五層、事務室、閲覧室部分は三階建てであった。

 建築設計において、この図書館は非常に大きな特徴をもっており、階段の手すりの模様、柱の太さ、正面扉の意匠、各所に設けられた明り取り窓のステンドグラス、天井の高さとその形など堅牢さの中に落ちついた佇まいは、今でも失われていない。相前後して建てられた大隈講堂と演劇博物館とともに、今や早稲田大学を象徴する建築物である。

 図書館のホールを飾る六本の柱にまつわる左官職のエピソードや、その正面の壁画「明暗」の作成経過、料紙岡太紙と横山大観、下村観山の苦心等についての話など、多くの話題に富む建物である。今そのすべてを記述するいとまはないが、当時の関係者の主な文献を掲げるに留めたい。

「壁画」(林癸未夫)(『天邪鬼』所収)

「『明暗』に関する資料」(『芸術』昭和二年二月号所収の高田、林、斎藤隆三、中川愛水の記事等『図書館月報』三八号再録)

「絵絹から画紙へ」(高橋正隆)

「六本の柱の話」(林癸未夫)(増補改訂『作文講話及文範』所収)

「六本の柱」(今井兼次)(『建築とヒューマニティ』所収、『早稲田大学八十年誌』転載)

 壁画「明暗」は、その後保全のため扉で覆われるようになったが、ホールとこの壁画を見事に表現した元館長、大野實雄名誉教授の言葉を引用する。

本館正面の大扉を排して中に入ると、六本の洋風で白い円柱が並立し、東洋風の緑の格天井としぶい調和をかもし出している。東西文明の調和を暗示する造型の美しさである。正面階段の方へ進むにつれて「明暗」の大壁画が迫り、太陽がぐんぐん大きく見えてくる。静かで壮大な気宇にみちたこのたたずまいは決して無用の遊び場ではなく、早稲田に無くてはならぬ貴重な空間である(『早稲田大学図書館紀要』第三号)。

四 昭和初期と戦時下・戦後の図書館

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1 図書目録の刊行

 新図書館建設後、大学の発展とともに館費も約二倍に増え、その結果、図書館蔵書も年々増加し、昭和九年には書庫が増設(六・七階)された。その前の昭和七年の大学五十周年を迎えた時の蔵書数は、和漢書二十三万冊、洋書十二万冊、合計三十五万冊余を数え、当時としては一大図書館に発展していた。

 一方この間、館内では、目録の整備と蔵書目録の編纂が大車輪で取り組まれていた。すなわち、大正十三年、従来の分類を変えて新分類を採用、そのため蔵書一冊一冊の分類替え作業を行い、蔵書の再点検と目録の整備、それとともに冊子体目録の順次発刊という一大事業を着々と遂行していったのである。分類替え作業は昭和初年度まで及び、番号簿の書き替え、調査簿の整備、図書一冊一冊の装備等、最小限の作業をとっても、その労苦は計り知れないものがあった。一方、図書購入費の増加による新規購入図書と寄贈本の受け入れ、整理と日常の業務を行っての上であるから、館長自ら分類を行い、館員はそれぞれ、その役割に応じてその一端をになったわけである。館員は館長林癸未夫、主事小林堅三、目録和漢書係大石理円以下三名、洋書係武島賢吉以下三名、注文受入係一名、蔵書係村山金吾以下四名、新聞雑誌係一名、貸出係滝沢活次以下三名、館外貸出担当八名、出納手十名、暖房手一名、使丁八名の総勢四十四名の大世帯になっていた。目録の発刊は次の通りである。

和漢書分類目録

法律(大正十三・三現在) 大正十四年十月刊 総類 (昭和九・三現在) 昭和十一年一月刊(付・索引)

哲学(大正十三・三現在) 大正十五年十一月刊 伝記 (昭和十一・十二現在) 昭和十二年五月刊(付・索引)

経済(昭和二・三現在) 昭和二年十二月刊 商業 (昭和十二・七現在) 昭和十三年三月刊

政治(昭和三・九現在) 昭和四年三月刊 芸術 (昭和十三・十二現在) 昭和十四年二月刊(付・索引)

歴史(昭和四・九現在) 昭和五年四月刊 統計 (昭和十三・十二現在) 昭和十四年五月刊

交通(昭和五・九現在) 昭和五年七月刊 宗教 (昭和十四・七現在) 昭和十五年三月刊

文学下(昭和五・九現在) 昭和六年八月刊 地理 (昭和十五・七現在) 昭和十六年八月刊

文学上(昭和五・九現在) 昭和十一年一月刊 語学 (昭和十六・十二現在) 昭和十七年十一月刊

洋書著者名目録

第一編一八八二―一九二〇 大正十一年刊

第二編(A―G) (一九二一―一九三〇) 昭和七年三月刊 (Q―Z) (一九二一―一九三三) 昭和十年三月刊

(H―P) (一九二一―一九三〇) 昭和九年三月刊

第三編(第二編以降昭和十三・三) 昭和十四年三月刊

 雑誌については、和雑誌分は各和漢書目録に分載され、洋雑誌目録は昭和六年七月(昭和五年十二月現在)に刊行された。

2 私立大学図書館協会の設立

 本図書館は、日本図書館協会に初代市島館長の頃より力を入れており、同協会主唱の図書館デー(大正十四年十一月三日)に際しては、盛大な展覧会および講演会を本館において開催した。協会が昭和五年に社団法人となる前後、昭和三年五月から八年六月まで、林癸未夫館長が協会理事となり、さらにこの間の昭和五年六月から一年間は理事長としてその手腕を振った。臨時的な企画、図書館統計様式調査、目録法調査等各種の委員会を設け、それぞれ当時の専門家による調査活動に力を注いだ。館員も、小林堅三主事が図書館雑誌の編集に携わるなどした。一方、私立大学間の協会設立についても、早稲田大学図書館が中心的な役割を果した。昭和五年六月、本館において、東京私立大学図書館協会設立総会があり、さらに九年には東京私立大学図書館協議会会報の創刊、議事摘要の発刊などが相次いで行われた。少しく私立大学図書館関係について、協会五十年史、七十年史によって当時の動向を述べておこう。

 日本図書館協会は、どちらかというと、全国図書館のうち、公共図書館に関する事項が主として協議され、今日では館種別に、例えば、大学部会という論議の場もあるが、直接には大学図書館との関係が薄かった。一方、大正十三年に帝国大学附属図書館協議会が発足し、さらに、全国専門高等学校図書館協議会(後に全国高等諸学校図書館協議会と改称)、次いで、昭和二年には医科大学附属図書館協議会も創立された。他方、図書館学の研究・学習活動は、民間に起り、昭和二年青年図書館員連盟が大阪で結成され、機関誌を発行し、各種の改革提案を行うなど図書館界に新風を吹き込んだりもしていたが、私立大学図書館にとっては直接的な影響はなかった。

 大正十二年頃、私立大学を集めて協会設立の気配があったが、未だ組織されず、各大学図書館同士での相互に研究し合う機会も少なかった。この頃の本学図書館の蔵書数は約三十万冊となっており、先に述べたように分類替えと目録の編纂刊行で手一杯であった。もっとも、こうした図書館界の動きのなかで、漸く昭和四年頃には、ある程度の機運ができてきて、法政大学の天晶寿、明治大学の森本謙蔵が、当時、日本図書館協会の会合の際に林癸未夫館長にその企図するところを述べた。しかし、慶応図書館の小泉信三等は、むしろ日本図書館協会の育成強化をする方が得策と考えていたため、この時点では結成されるまでには至らなかった。ところが、昭和五年三月、小林主事を通して、再度話合いの申し入れがあり、打合せを重ねた末、六月になると林、天晶、森本の連署で会議趣意書を作成し私立大学図書館の結集の呼び掛けが行われた。こうして、六月二十八日、早稲田大学において設立総会が開催され、東京私立大学図書館協議会が発足したのである。

 昭和十二年に第七回協議会が早稲田大学で開催され、全国規模の協議体に発展させる話合いが行われるなどして、翌十三年五月には、全国私立大学図書館協議会の第一回大会が開かれるに至った。これには、東京十四校、関西三校が参加した。その後、参加大学も増え、昭和十八年五月の第六回大会では名称も私立大学図書館協会と改称した。なお、本館は昭和十三年から十六年まで理事校を務めたが、その後戦局が苛烈となって、総会も開催されず、戦後も、戦災をうけた大学もあって、関係者の消息も思うにならず活動を中断せざるを得なかった。復活したのは、終戦の翌年、高野山大学で開かれた第七回大会においてである。

 こうして、本図書館は、関連する団体で中心的活躍をする一方、図書館の内的充実のための活動にも努めてきたのである。

3 コレクションの受入

 昭和四年には、館の記録資料のまとめと利用者の便利にもなる『図書館一覧』を編集し刊行した。これは、その後改訂を重ねて、館の歴史を語る貴重な資料ともなっている。昭和七年には、蔵書の保護のためにSK消毒器を購入設置した。

 すでに触れたように、昭和九年には書庫の増改築が行われた。これは建設当初からすでに増築が予定されていたもので、六、七層を増設したほか、新たに教員閲覧室、大学院および研究科学生の閲覧室を設けた。

 一方、蔵書の充実にも見るべきものがあった。先ず第一に、新図書館建設直前に現「小寺文庫」の第一面の寄贈があった。これは神戸の素封家小寺謙吉が、自ら選んで社会科学関係の洋書を各大学図書館に寄贈していたもので、なかでも早稲田大学図書館への寄贈が長期かつ多量のものとなり、図書館はこれに「小寺文庫」と名付けて記念した。大正十三年十一月から昭和二十一年まで、実に二十二年間余りにわたり、総計三万六千五百七十冊の寄贈を受けたが、これは大学の研究者にとって、最も新しい社会科学関係の新刊洋書コレクションとしてきわめて貴重な文庫となった。

 さらに花房文庫(大正十五年二月)は、初代内閣統計局長を務めた花房直三郎の蔵書で、明治初期の統計書、統計研究書を中心に、和漢書三千百七十冊、洋書六百三冊に及んでいる。ほかに、日本に関する欧米のレア・ブックを集めたり、中桐確太郎の紹介でカトリック集書の寄贈を受けたりした。

 この間、蔵書は、昭和十一年に四十万冊、昭和十九年には五十万冊に達していた。また展示会も次のごとく開催された。早稲田大学五十年史展覧会(昭和七年十月)、夏期講習会図書展覧会(昭和十二年七月)、大隈老侯生誕百年祭記念展覧会(昭和十三年十月)、辞書を中心とせる日欧文化交渉史料展覧会(昭和十四年十一月)がそれである。

 なお、昭和三年十月、坪内逍遙の多年の宿願であった演劇資料館は学内外関係者の協力によって、坪内博士記念演劇博物館として結実した。これは、博物館と命名されこそしたが、博物館資料のみならず研究図書も収蔵するユニークな博物館を目指すものであった。逍遙所蔵の錦絵をはじめとする演劇関係の寄贈書を核に図書を収納したが、図書館蔵の演劇関係図書も移管された。すなわち、昭和四年二月、狂言番付・錦絵・正本類・絵本等、一万八千九百六枚、二千五百十五冊を、さらに同年七月に和漢書四千五百三十一冊を移管し、昭和五年二月には貴重書を含む特別図書九百一冊と、都合三回に分けて移管が行われた。現在、図書館にある逍遙文庫(和五〇八二冊洋一二五八冊)は、演劇関係以外の蔵書であるが、本館でも演劇分野の基本的な図書資料は購入され、収蔵されている。

4 戦時下の図書館

 昭和十年代は、特に後半には年ごとに戦時色が色濃くなり、また図書出版に対する国家統制も進み、文部省においても、各大学図書館に対して、所蔵する左翼思想図書の取り扱いについて考慮を促すことがあった。そのため、新規購入の中止、寄贈図書の不受理、貸出禁止がなされ、すでに昭和九年にも、本館でも、『ヴァルガ経済年報』や左翼の教授・校友と見られた人達の著書の購入撤回、寄贈の不受理が見られた(清水正三著『戦争と図書館』所収、『帝都日日新聞』一月十八日記事)。

 この頃、図書館の日常業務は大過なく行われ、印刷目録も先に述べたように着実に刊行されていった。

 しかし、図書館利用者は、昭和十五年の約十四万人をピークに昭和十六・十七年と漸減し、昭和十八年には八万余、十九年には三百余日開館はしていたが三万人を割っていた。出征、動員や学徒出陣による教職員、学生の数の減少が影をおとしていた。

 このころの秋艸道人会津八一の歌二首を紹介しておこう(館蔵色紙二枚)。

門下学生の戦場に赴きを送る

くりやへは こよひもさひし ひとつなる りんごをさきて きみとわかれむ 八一

(*会津八一歌集には第二句こよひもともし)

早稲田大学図書館にて

むかしわか あしたゆふへに よみつきし ふみなほありて しょこはかなしも 秋艸道人

 昭和二十年に近づくと、戦局も厳しくなっていったが、戦災にも遭わず図書館を守り通した姿を、当時の宿直日誌で追ってみよう。

昭和十九年十二月二十三日(土)晴

宿直 富永、神賀 非常宿直 内山

居残 石田、炭谷、平松

一、午後四時閉館 書庫ヲ巡視シ閉館ス

一、午後九時 警戒警報発令 十時解除

一、翌午前二時 警戒警報発令 五時解除

警報発令ト同時ニ宮川主事来館

 この頃、宿直者は二名に非常宿直一名を加えて三名で行われていた。東京地方には、ほぼ毎日警戒警報が発令されていた。宿直日誌は、前記形式で克明に記述されている。館長への連絡、さらに真夜中にかかわらず図書館主事(事務長)の来館などの記事から、全館員一致してその保全に努めた様子が窺われる。東京への侵入機は十二月三十一日にもあり、当日三度も来襲していた。空襲は翌年になるとその頻度を増していった。

 大学が戦災を被った五月二十五日の記述を見ると次のように記されている。

五月二十五日(金)晴 宿直 宮川、福原

一、午前七時十分警戒警報発令 四十五分解除

十一時五十六分警戒警報発令 午後零時二分空襲警報発令 四十分解除 四十六分警報解除 午後一時六分警戒警報発令十時二十三分空襲警報 二十六日午前三時半空襲警報解除 警戒警報解除は不明なり 其間早稲田大学に焼夷弾数十発落下 学園周囲にも火災発生 折からの強風に煽られ、遂に恩賜館全焼 文学部商学部の一部演劇博物館の上部等延焼す

図書館と本部は幸に難を免れたり。

今迄に判明せる罹災者 遠藤、平松、福原、林、上市君等

 この時、大学の戦災による被害は、校舎全体のおよそ三分の一であったが、図書館はこの後も幸にして難を免れた。

 六月に入ると図書疎開の記事が見え始める。当時の河竹演劇博物館長の好意による大日本史料・古文書資料の埼玉県への疎開の記事があり、二十二日には演博依頼のトラックで、官報他二種五十八包(六百八十五冊)の疎開が始まった。これが八月に入ると、本格的な図書疎開のための荷造りが始められ、八月三・四日、荷造り人三名に勤労学徒五十名で荷造り、以後、荷造り人三名位が翌週から連日来館し、勤労学徒も七・八日にそれぞれ二十名、三十名の動員で一挙に荷造りが行われた。八日には場所の確保のため秩父郡吉田、肥土(あくと)家に出向いて倉庫を見ている。注記に往復八・九時間かかった旨が記載されており、当時の交通事情が窺われる。また、輸送のトラック、鉄道便確保のためか、十四日の記事には大塚の疎開支部、中野駅荷物係の連絡の記事もある。九日には「館員にて荷札の整理、紐通し等に従事す」とあるように、連日あわただしく、八月十五日までこの荷造り作業は続けられていた。

 この頃、江戸時代の儒家服部南郭家に伝わった蔵書(七月十八・十九日受取り)、西村真次教授の蔵書(主として和漢書、七月二十・二十五日受取り)の寄贈があり、その連絡、処理等、大学被災後の戦局の推移の深刻さが、記事の裏面に滲み出ている。この時寄贈を受けた蔵書は戦災を受けることなく、一つは服部文庫(イ一七、服部文庫目録参照)となり、他は一般収蔵書として整理され、ともに本館蔵書中の特徴ある収書となっている。なお、六月一日から当分の間、閲覧は休止されていた。

 八月十五日、終戦当日にも荷造り人一人来館、正午退出。翌十六日、総長から全学の疎開事務打止めの指令が出された。

 八月二十七日、早くも疎開されていた館蔵の国宝三点(旧国宝)は、文部省よりの指令で受取り(埼玉県西多摩郡大久野村羽生、羽生謙一郎宅)、そして九月十日開館を目途に九月三日から荷解きと整理が始まり、目標通り十日から図書館は開館されたのであった。

5 戦後の復興

 昭和二十年八月、戦争は終ったが、すぐには復興できず、却って混乱した世相となり、一方大学の建物も三分の一が焼失し、瓦礫もそのままであった。しかし、学生の復学も徐々に始まり、虚脱した戦後の時代ではあったが、物はなくとも勉学に勤しむことのできる平和な日々が戻ってきた。図書館は九月十日から開館した。八月までは休館が多かったが、昭和二十年度の開館日数百五十九日(それまでは三百余日)にも拘らず約三万人の閲覧者があった。昭和二十一年度になると開館日数は三百日近くとなり、閲覧者も八万七千六百人と増加した。図書館は、一部研究室貸出図書が焼失したのみで建物の被災もなく、収蔵図書が荷造りされたまま未疎開で残っていたので、当時の学生の本に対する渇をいやすことができたのである。しかし、当時は館員も少く、占領軍の指令で一部閲覧を禁止された図書もあって、全館的な整備は、なかなか思うにまかせなかった。

 終戦直前の昭和二十年四月、林館長は現職のまま大学の常任理事となり、小松芳喬教授が副館長に就任した。そして、林館長は、昭和二十一年一月中野登美雄総長の在任中の死去により総長事務取扱(兼任、同年六月まで)になるが、昭和二十二年一月に死去した。昭和二十二年二月、大学は当時まだ疎開先にあった岡村千曳元第一高等学院教頭・教務幹事を大学に呼び戻し、第四代図書館長に嘱任した。この前後、大学の規約改正があり、前年十月の職制改正により、主事を事務主任に、館長の選任も公選制に、また二十二年三月には、図書館の主事を司書に改称、図書館では事務主任のほか、洋書、和漢書各係主任を司書に嘱任した。そして、四月には図書館規則を改正するなど、戦後の混乱の中で徐々にではあったが組織の整備がなされ、平常に復帰する努力が続けられていった。夜間開館は、二十一年十月から臨時処置として午後六時までに、二十三年六月からは午後九時まで開館にこぎつけ、図書管理規程の制定、図書館閲覧細則の改正も二十四年四月に行われた。この頃から漸次学内も学生が増加し、多少活気が感じられるようになったが、教職員、学生ともになお生活に追われる日々で、すべての人々が衣食住に困窮していた。

 しかし、こうした世相の中で、図書館界においては、アメリカ教育使節団の来日(第一次昭和二十一年、第二次昭和二十五年)、国立国会図書館の設置(昭和二十三年二月)、図書館法の改訂(昭和二十五年四月)など、新しい戦後の図書館への出発があった。そして、これに対して最も早く対応したのが私立大学図書館協会であり、早くも昭和二十一年七月には第七回大会が高野山大学で開催された。本図書館では、昭和二十三年十一月から二十九年までその常任理事校を引き受け、戦後の図書館界に対応すると同時に、館内の組織固め、蔵書、閲覧カードの整備、食堂の開設などが順次行われた。

 昭和二十二年十一月、五日間に亘って百回忌馬琴展覧会を開催した。館蔵の自筆本・刊本・写本および伝記関係資料を中心として四百余点に及ぶ展覧であった(冊子謄写版目録刊行)。その際、馬琴の後裔に当たる滝沢邦夫氏の好意によって門外不出の貴重資料十余点が特別出陳された。学内における催しではあったが、学外の人の観覧者も多く、戦後の荒廃した世相に対して内外ともに一つの清涼剤となった。

 当時、かなり多くの図書が古書業界に出回っていたので、これらの収集に乗りだすと同時に、本屋に行列をつくらなければ入手できない新刊の良書の購入にも手を打つなど、予算上購入を菊判以上の図書に限定せざるを得なかった戦時中の収書の欠を補った。また、新輸入の洋書、中国図書など着実に一部ずつ収集していった。当時、図書館の蔵書数五十万余冊(昭和二十三年度、五十二万六千七百三十八冊)であり、ほかに二万余冊の未整理図書を抱え、年間一万三千余冊の新加図書があった。昭和二十三年度の閲覧者は十三万人余りとなった。そして、昭和二十年八月からわずか三年半後、新制度下の大学図書館に移行していったのである。

五 新制大学の発足と図書館

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1 新教育制度への対応

 すでに述べたごとく、被災とその復興による経済の混乱は、戦時中よりも更に厳しい生活困窮をもたらし、大学とてもその状況に無縁ではあり得なかった。こうした中で、アメリカ軍の占領政策は教育行政にも大きな改変を求め、その政策に基づく改革が相次いで実施されていった。

 新制大学への移行もその一つで、早稲田大学も昭和二十四年に新制大学へ移行したが、同時に、新図書館法も、占領軍の勧告を受けて種々検討を重ねたうえ、昭和二十五年に制定・公布された。新制大学における新しい図書館制度、特に従来の資料保存の体制から公開・利用体制への移行は、日常業務にも大幅な変革を求めた。しかし、その前に、図書館としては、先ず戦中の残務の整備から始めねばならず、新理念実現への足取りは必ずしも急速とは言い難かった。新しい体制が定着してきたのは、新制大学発足後十年、大学創立八十周年を迎えた昭和三十七年頃ではなかったかと思われる。以下この頃の動向を述べておこう。

 昭和二十四年四月、六・三・三・四制に従って改組された新制早稲田大学(十一学部)と、新制高校・早稲田高等学院が発足した。昭和二十六年三月には学校法人となり、四月から大学院六研究科修士課程を設置、二十八年四月には同博士課程が設置された。このように新制大学の形が整うにつれ、図書館に対する要求も次第に活発になってきた。

 大学図書館としては、今まで主として研究用図書の収集・整理・保存に力を注いできたが、新制度になって、図書館は、研究の場であると同時に、学生の自学自習の場としての役割が主要のものとして求められ、資料の保存から、利用・公開へと始動し始めたのである。この当時の事情について、昭和二十二年から図書館事務主任であった大塚芳忠は次のごとく述べている。

玆において、従来の図書館は、図書の収集・整理・保存さえしておれば、すなわち、消極的な運営で間に合ったが、新教育制度下の図書館は、出来るだけ多くの教職員学生に利用せしむる様な方策を講じなければならなくなった。今一つの新旧教育制度の著しき相違点は、旧制大学は主として専門教育を行ったが、随って図書館の蔵書構成は主として当該専門図書であったが、新制大学においては著しく一般教育に重きを置くことになったので、随って蔵書構成を著しく変更しなければならなかった。即ち、新教育制度施行のため図書館は、従来の消極的運営を積極的運営に、図書の管理本位の運営を利用本位の運営にしなければならなかった。しかしこのことは簡単のように見えてそう簡単なことではない。殊に戦時中における極度の人手不足、図書の疎開による混乱・外国文献入手不能等は、ますます運営方針の修正に困難を加えた。しかしたとえ如何なる困難があろうとも、職を図書館に奉じている以上、断乎として行わなければならない。かくて館長以下館員は思いをここにいたし、この困難を克服して、一日も早く新教育制度下の大学図書館としてあるべき姿に整備することに早くから着手した(「新教育制度下における本大学図書館の現状」『早稲田大学図書館月報』2号)。

2 図書館業務の拡大と広報活動

 こうした利用者本位の積極的な図書館運営は、館内諸施策に次々と現れ、資料の整備、視聴覚資料の収集、文献複写業務、参考室の設置と担当者の育成、広報活動、展示会の開催、会報・機関誌の刊行、研修・研究会、さらにはその報告会等、従来の図書館業務に加えて、活発な動きになって現れてきた。新制大学発足三年後の昭和二十七年、大学図書館開設五十周年には、増築を含めての新図書館の構想も立てられていた。

a 収書目録発刊

 利用者サービスの要請に応えて、昭和二十六年四月、『図書館月報』が発刊された。

 岡村千曳館長は、その巻頭の辞に、

図書館の優劣は主として収書の質と量とに依つて決定される事を思へば、収書の状況を月々速報して利用者諸君の便宜を計ると同時に、其批判を仰ぎ、以て当館内容の充実に資し、其向上発展を援け度いと希望いたします。

と述べ、刊行目的を明示している。B5判、創刊号の本文二十一頁、収書速報とともに、図書館関係記事、資料紹介等を収載し、学部図書室・教員に配布された。これは、今日まで三十余年継承され、昭和五十七年七月現在、二六三号まで発刊されている。

 同年五月には、利用案内も小冊子にまとめられ、学部学生に広く図書館の利用を呼びかけている。また、新入生に対するオリェンテーションも始められ、昭和三十二年にはスライドの作成も試みられて、利用しやすい図書館へと脱皮していった。このオリエンテーションはその後も、形式を変えながら、今日まで引き継がれている。

b 視聴覚資料の収集

 月報・利用案内などの発刊は新生図書館の一つの側面であるが、収集資料も新しい様相を見せている。図書館における視聴覚資料は、戦前は特に収集はせず、たまたま寄贈されたレコード類や、必要に迫られて撮影された写真乾板が保存されている程度であった。しかし、戦後は視聴覚教育が重視され、レコード、フィルムも広義の図書資料として重要視されるようになった。初期には単に展示会用のパネル写真の必要があったくらいであるが、徐々に、遠隔地にある図書資料のフィルムによる収集が求められ、その撮影・保管が研究上の必要性から生れてきた。映画用ポジ・フィルムによる文献複写が行われだしたのは、昭和二十五・六年頃で、図書館として初めて資料収集のための出張撮影をしたのは、本居宣長記念会保存の『古事記伝』(自筆稿本)で、昭和二十六年十一月のことであった。こうして、昭和二十九年一月にはマイクロフィルム・リーダー用にドイツ製ルーモ・プリント一台を購入し、更に西独製ルーモ撮影機が昭和三十一年に設置され、新聞紙大の大きさまで撮影・焼付することができるようになり、担当者も置かれるようになった。

 一方、レコードの収集は、SPからLPに変わる昭和二十六年頃から始められた。語学レコードはまだSPであったが、詩の朗読・洋楽などは漸く出始めていたLPレコードで収集した。そして当時、収集・整理面でかなり進んでいたNHKレコード資料室などを参考にしながら保管棚を作り整理をし始め、新収レコードによるレコード・コンサートを大隈講堂で開催し、五、六百名の聴衆を集めたこともあった。そして、漸く昭和三十一年一月の月報に、

ここ数年来、大学図書館としての視聴覚資料の収集に努めてきたが、昨年末(注・昭和二十九年)、多年の懸案たる試聴・録音編集室およびマイクロフィルム撮影室が完成した。聴覚資料作成用の機械機具類はすでに整備を了り、撮影機も近く着荷する予定である。授業用のレコード・録音テープの御要求に応じ得る態勢もととのへたので、御利用をお伝えする。

と述べ、その基礎のでき上ったことを報告している。しかし、この頃は、文献複写と視聴覚レコード部門はまだ同じ室に置かれていたが、昭和三十三年七月、視聴覚資料室は一九号館(現在の七号館)に移り、視聴覚専用の教室も附置され、それぞれ独自の活動を開始した。

c 参考係誕生

 参考業務は、昭和二十八、九年頃から、館内の利用案内として、出納カウンターの傍らにコーナーを設けて発足したが、本格的にその業務を開始したのは昭和三十年四月である。「参考室」を新設し、参考係員六名を配置した。しかし、最初は「参考室」とか「参考係」とかいっても、学生にはなじみのない名称だったので、わかりやすい表現として「読書相談」とも称していた。これは担当者も同様で、「参考業務」を図書館学で習得し、理解しても、実際にはその範囲、方法など種々のとまどいがあった。しかし、学生と直に接し、質問を受ける中で、次第に業務内容を把握し、カード検索方法などの直接的な利用案内は勿論、レポート作成などのための資料調査のアドバイス、学外の文献探索、その利用の紹介、書誌作成など、研究・授業に沿ったレファレンスは日を追って数を増し、学生のみではなく、教員の間にも「レファレンス」いう言葉が浸透していった。そして、昭和三十六年に新館の二階に移転、同時に約五千冊の辞典・年鑑・書誌・索引類の参考図書をもつ開架式閲覧室を併設して、ようやく「参考室」の実体が整ってきたのである。

d 指定図書室

 当時、いま一つの制度として、リザーブ・ブック制があった。教科担当者があらかじめ必読図書を指定し、受講者は指定された図書を必ず読んで授業に出席するための制度である。これは、新制度下の大学に要求された授業方法であり、図書館としては、それらの図書を用意すべきであるというのである。一方、これも新教育制度下における一般教育に対応するものとして、特に低学年学生の学習に直接係わる基本図書を収集するとともに、オープン・システム(開架方式)にして、直接図書に接して利用する方法を採ることが要求された。前者からは「指定図書」の設置が義務づけられ、後者からは開架図書への要望が示された。当初は、教科担当者にアンケートを出して、必要図書を指示してもらい、必要に応じて三部まで重複して購入し、これを「指定図書」と呼んだ。また、取敢えず、旧蔵図書のうち、学習に必要と思われる基本図書と参考図書を選定し、これら約二千余冊を階下の一室に配架した。館蔵図書の一部を開架し、出納方式によらない利用に供したわけである。しかし、この方式は旧蔵図書を運用したため、処理上いろいろの問題があった。そこで指定図書用の購入予算を別枠に取り、アンケートによる指定図書の他に新刊書を主体に、教科に沿った図書・学習書を収集し、新館書庫四階の一部を区切って「指定図書室」を開設した。収蔵書は四千二百冊で、安全接架制を採った、昭和三十七年十一月のことであった。この指定図書制度は、何回かアンケートを重ねるうちに、回答者が固定されるようになり、図書館と各教科担当者との意志の疎通を欠いたまま中断され、その後は図書館による学習に必要な基本図書を主体とした収書に変り、名称も「学習図書室」と改められて現在に至っている。

e 展示会開催

 戦後いち早く始められた図書収集もさることながら、幸いに図書館は戦災を免れたので、既存の館蔵資料を主にして、昭和二十四年頃から学内で次々に展示会を開催していった。これは戦時中、本から離れていた人々の渇をいやすためと、館員にとっても、疎開その他で、手を触れることのできなかった図書との無事の再会を確かめる思いも込められていたように思われる。

 この当時、一般にはこうした図書展示は少なく、学外の人も多く来館して、大いに関心を示した。特に本学創立者大隈重信の記念展示は、これらの資料の大半が図書館に収蔵されていたので、積極的に取り上げ、学内外の関心を引いた。昭和二十四年五月、第一回の大隈記念祭展示を行ったあと、昭和二十五年五月に第二回、昭和二十六年五月に第三回を行った。そして昭和二十七年十月には、創立七十周年記念祭の一行事として、大隈研究室(現社会科学研究所)と共同で、大隈重信回顧展を日本橋三越で開催、卒業生をはじめとする大学関係者はもとより、一般観覧者も多く、人々に感銘を与えた。また創立記念日を中心に、創立七十周年記念早稲田大学回顧展を本館第一閲覧室にて行い、併せて図書館の五十周年の歩みを展示し、学生の参観者を多く集めて盛況であった。

 昭和二十六年三月には第二回特別図書展を行い、貴重書六百十三種を展示した。さらに、昭和二十七年十一月、私立大学図書館協会第十三回全国大会が本学で開かれた際、新収書、それまで未出陳の貴重書約二百点を十六部門に分って展示、第三回特別図書展覧会を開催した。

 主題別の展示としては、市島春城先生記念日本上代金石拓本展覧会(昭和二十四年六月)、四部分類図書展(昭和二十六年十二月)、幕末維新対英外交文書展(昭和二十七年十一月)、開国百年記念洋学展覧会(昭和二十八年一月)、近世文学小説誹諧展示会(昭和二十八年五月)、維新前後社会経済史料展(昭和二十八年五月)、日本中世逸亡金石拓本展覧会(昭和二十九年四月)、中国書展示会(昭和二十九年十月)を開催した。

 なお、二十六年十一月には、本館の主要貴重書を"A Catalogue of the Exhibition of Rare and Valuable Books"として英文パンフレットを作成した。

 洋学展に出陳された岡村千曳館長所蔵書は、自筆稿本類を中心とした蔵書であるが、昭和三十年本館に収蔵することになり、続いて、この時出陳しなかった勝俣銓吉郎教授の旧蔵書も館蔵に加わり、市島謙吉以来収集し続けた洋学関係書は、大槻・岡村家旧蔵書を中心に、後に「洋学文庫」としてまとめて整理され、本学図書館の特徴ある集書の一つとなっている。なお、岡家旧蔵、秋山氏、山岸氏、池田氏の旧蔵本も本文庫に加えられている。

 昭和三十年四月、一年近い時を費やして、図書館増築が完成した。書庫・閲覧室・事務所など、すべて狭隘となり、新しい図書館活動を行うには増築は必須の条件であった。漸く、参考室・視聴覚教室、文献複写室なども整い、基礎固めから次のステップに移る必要最小限の施設ができたといえる。

 新館総工費五千四百万円余、増加建坪一一八・二〇坪、延坪四八〇・〇七坪、閲覧室二室、書庫六・七層を増設。昭和二十九年度の蔵書数は六十万千六百四十一冊であった。

六 昭和三十年代の図書館

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1 全学的図書行政への取り組み

 昭和三十年代の歴代館長は次の通りである。昭和二十八年三月、岡村千曳館長が定年退職し、久保田明光理事が館長事務取扱となった。四月、原田実教授(教育学部)が公選で館長に選出されたが、その後昭和二十九年、校規改正によっ、て、館長公選制度が廃止され、総長の嘱任に拠ることとなった。原田館長は引続き館長の任につき、昭和三十三年十月まで在任。そのあと、大野實雄教授(法学部)が第六代館長に就任し、戦後の図書館発展の基礎を築いた。まず昭和三十五年には「収書に幅広い視野を」という大野館長の考えから、副館長制が採用され、洞富雄教授(前和漢書係主任)と阿部敬二洋書係主任が嘱任された。洞副館長は昭和三十九年まで在任、阿部副館長は昭和三十七年に死去、後任に加藤諄教授が嘱任され昭和四十一年まで在任した。図書館増築後は、参考業務は拡充され、視聴覚および文献複写業務も軌道に乗って、指定図書制度も新設するなど、新制大学としての図書館の対応は急速に進展し、副館長は収書に加えて、これらの制度整備にも力をつくした。両副館長退任のあと、副館長は二十年近く空席になった。

 一方、それまで図書館に集中していた図書費が、この頃から次第に各学部へも配分されるようになり、全学的図書行政のあり方への関心も芽生え始めた。大学の図書費は、それまで、附属学校・研究所を除いては、予算のほぼ全額が図書館に配分されていた。従って、創立以来、図書資料はほとんど図書館に収蔵され、集中管理・運営が行われてきたが、その購入に際しては、洋書予算の半額を、各学部に割当て購入図書の選定を依頼し、収書の均衡を図るというやり方が採られていた。しかし、これはあくまで選択権のみであって、選択後購入された図書はすべて図書館に収蔵され、学部図書室には配置されなかった。学部用として必要な図書は、図書館と協議の上、長期貸出の形で学部図書室備付図書として利用の便を図ったが十分なことは望めず、ほとんどが本館内教員図書室を利用することと、個人の館外貸出制度によって研究が進められていた。

 備付図書以外にも、研究所・学部研究室には学会関係の紀要類や寄贈・交換図書があり、ことに研究所では、研究資料を積極的に集める必要もあって、収集された資料は各箇所にほとんど未整理のまま集積されていた。昭和三十年頃からは、各研究室の整備が進み、各学部の増築・改築の度に、教員図書室が付設されていった。しかし直ちに図書担当者が配置されるには至らず、事務所の職員、あるいは助手などが図書整理を行う状態が続いた。

 これより先、昭和二十四年六月に制定された「早稲田大学図書館管理規程」の第六条には、「図書館長は、早稲田大学図書の綜合目録を調整し、これを図書館に備付けなければならない。図書館以外の箇所の長は、その所管に属する図書について、前項の綜合目録の整備に必要な資料を、図書館長に提出しなければならない」とある。そして、さらに、第二条には所管区分を定め、その但し書きに「但し、図書館以外の箇所の長は、その所管に属する事務の全部、又は一部を、図書館長に委託することができる。この場合には、その箇所の長は、総長にこれを報告しなければならない」としている。こうした規定はあったものの、各箇所の蔵書数はまだ少なく、また図書館自体も、綜合目録の必要は認めながらも、実際には、それほどさし迫った問題とはしていなかった。しかし、次第に部局割当予算が増加し、仕事量も増してくると、図書整理に人員の配置できない部局では、その整理・利用に支障をきたし始め、図書館に協力を求める声が上がるようになった。そこで、高等学院に対して、初めて館員の派遣と、学院所属の司書系職員の増員が図られることになったのである。

a 出向制度

 図書館増築が終り、新大学制度に対応する館内態勢が整いつつある時、学内でも漸く全学図書行政についての論議が高まりをみせてきた。大野館長就任後間もなく、昭和三十四年から翌三十五年にかけて、戸川行男常任理事のもとに図書行政に関する委員会がもたれ、図書の収集から整理・運用に至るまで、セントラリゼイションの是否が論議された。しかし実状として分散管理に傾かざるを得ず、集中方式に代る方法として、現在も続いている「出向制」が考えられた。「出向制」とは、館員が各部局図書室に出向して司書業務を行い、作成した目録カードを本館にも送付することによって、全学綜合目録をも併せて作成しようとするものである。

 これによって、昭和三十六年四月、法・商・文・教育・理工学部へ、中堅司書各一名が派遣され、翌三十七年には政経学部も加わり、各学部長・事務主任の管轄下で図書業務を担当することとなった。その後は、大学院・研究所・学生読書室にも事情に応じて派遣・増員を行う箇所が増加していった。しかし、この「出向制」は館員の増員を伴わずに、現行員数の中からの派遣であったので、欠員による館内業務の停滞も生じ始め、出向要請のすべてに応じることはできないため各学部間に不均衡を生じた。その解決を目指す試みの一つが、全学司書職一元化へつながったともいえる。昭和五十七年六月現在の出向者数は次の通りであった。

政経学部(含、政研・経研)四名、法学部(含、法研)五名、文学部(含、文研)四名、商学部(含、商研)三名、理工学部(含、理工研)三名、教育学部二名、社会科学部二名、現政研一名、比研二名、学院二名。

b 部局図書室

 部局図書室(大学院研究科・学部・研究所・附属学校等)および学生読書室(大学院・学部・附属学校)については、それぞれが独自に設立され運用されているので、詳細は各部局史に委ねるが、近来、全学の図書行政の一元化がいわゆる総合学術情報センター構想の中での重要課題であったので、少しだけ触れておきたい。

 各部局図書室の中で、特に学部教員図書室の蔵書は年ごとに充実され、本館の出向制度もこれら教員図書室を中心に大学院研究科の図書室も併せて実施された。学部および大学院研究科への図書費割当の増額、さらに教員の個人研究費中における図書購入分の増加、その他実験実習費等による図書購入、文部省ないし別途予算による図書購入、寄贈図書等、加速度的に蔵書量は増加した。現在、学部図書予算自体も、全学的に見てかなりの比率を示しており、こうした面からも、その図書の所在情報と共同利用、また購入図書の調整(特に高額または専門図書)のできる機関の必要性がいわれる所以がある。

 次に、研究所の図書室は、その設立と同時に付置されているが、近年その充実ぶりは目覚しいものがある。戦前から設置されている鋳物研究所(現・材料技術研究所)をはじめ、社会科学研究所、理工学研究所、システム科学研究所、比較法研究所、語学教育研究所、産業経営研究所、現代政治経済研究所と漸次設立されたもので、蔵書の構成も同系列の学部との分担収集など、かなりの独自性が認められている。図書館からの出向者は、現代政治経済研究所、比較法研究所、理工学研究所(理工学部にて共通整理)にすぎないが、逐次刊行物目録などの全学目録の作成、図書館参考係を通しての共同利用、特殊資料の分担収集等、各研究所間の調整が行われている。また附属機関として、演劇博物館、会津博士記念東洋美術陳列室とも購入図書の調整、寄贈図書の受入先の選定等について協議する体制を作り、高等学院(上石神井・本庄、出向各一名)、体育局、大学史編集所、大学問題研究資料室とも、連携がそれぞれに応じて行われている。

c 学生読書室設置

 もう一つ、大学の動向の中で、新制度切替後図書館に深く係わりのあるのは、各学部に学生読書室が設置されたことである。新制大学制度の中で、特に強調された「自学自習」の求めるところは、大学教育の中での図書館の重要性を示すものであり、本館内でも先に述べたように、総力を挙げて利用面の拡充を図り、学生専用の指定図書制度の設置から学習図書室へと充実化が図られてきた。しかし、学生にとって、中央に位置する図書館だけではその要求が満されないのは明らかである。各学部は広いキャンパス内に散在し、大学の発展とともに学生数も増えてきたことからすれば、大規模な学習図書館が必要であったが、当時としては、用地の確保などの問題で早急に応じることはできなかった。そこで考えられたのが、新図書館に代るものとして各学部内に学生用図書室を設置することである。とはいっても、当時としては予算措置も容易ではなく、やむを得ず学生から学部用図書購入の費用を徴収し、それをもとにして、学生の自治による運営を基盤として「学生読書室」を発足させた。各学部のそれぞれの事情もあり、図書選択・整理・運用など、その方法も学部によって異なるが、蔵書の充実とともに利用度も年々増してきている。予算面でも、近来、大学からの支出が増加し、担当者も、図書館から出向者を派遣して、整理・運用面での協力を図っている。しかし、ここでもまたスペースの限界という壁に突き当ってきている。現在、出向箇所は、社会科学部、政経学部、文学部、法学部、理工学部の各学部である。

2 大型コレクションの寄贈と対外活動

 資料収集の面から見ると、昭和三十年前後は、古書業界に種々の資料が集まり、古書展も多く開かれるようになり、図書館でも新資料を収集することができた時期であった。一方、大口の寄贈も相つぎ、かなりの資料の充実が得られた年代であったともいえる。宇垣一成資料、水口(豊次郎)短冊資料の寄贈(昭和三十年)、法学部からの原田(忠夫)繊維文庫の移管と整理(昭和三十年)、小倉(金之助)文庫の購入(昭和三十一年)、極東国際軍事裁判資料の寄贈(昭和三十一年)など、また、アジア財団・印度政府・エルサルバドル政府寄贈図書などがあった。さらに、昭和三十七年には、衣笠静夫・清水泰次・津田左右吉コレクションの寄贈があり、昭和三十八年には斎藤弥コレクションの寄贈と続き、市島謙吉関係資料もこの年遺族から寄贈された。こうした購入・寄贈図書を整理する一方、本館の蔵書を館内外に紹介・展示する展覧会活動も相次いで活発に行われた。

 以下、昭和三十年代に刊行された蔵書目録、各種展示会を列記しておこう。

洋書著者名目録

第四編(A~J) 一九三八~一九五五 昭和三十四年七月刊

〃(K~s) 〃 昭和三十六年四月刊

〃(T~Z) 〃 昭和三十八年四月刊

和漢書分類目録

大隈文書目録(特刊之一) 昭和二十七年十一月刊

小倉文庫目録(特刊之二) 昭和三十二年六月刊

会津文庫目録(文庫目録第三輯) 昭和三十七年十一月刊

展示会

中国語文関係資料展示会(昭和三十一年十月)   辛亥革命50周年記念・日中関係史料展(昭和三十六年十月)

科学史資料展(昭和三十一年五月)        早稲田大学名品特別展(昭和三十六年十月)

特別図書展(昭和三十一年六月)         天野為之先生伝記展(昭和三十六年十一月)

古短冊展(昭和三十二年六月)          早稲田大学八十年の歩み記念展(昭和三十七年十月)

特別図書展(昭和三十二年十月)         洒落本展(昭和三十八年六月)

早稲田大学展(於・日本橋白木屋)(昭和三十二年十月) 大隈重信生誕一二五年記念展(昭和三十八年十月)

七十五周年回顧展(昭和三十二年十月)      国語辞書史展(昭和三十九年九月)

市島春城展―生誕百年記念祭(昭和三十五年五月) 安部磯雄生誕百年記念展(昭和三十九年十月)

荘園関係絵図展(昭和三十五年九月)       大日本地名辞書展(昭和三十九年十二月)

高田早苗先生生誕百年記念展(昭和三十五年十月)

3 『早稲田大学図書館紀要』の発刊

 昭和三十年代はまた、他大学の図書館との交流も多く、日本図書館協会、日本図書館学会等の会合、研究会に参加することで、次第に図書館界に活動の場を拡げていった時期でもある。ようやく館内の体制も整い、図書館業務も多様化して、利用者サービスに重点をおくようになると同時に、教員・学生からの要望も、これまでの館蔵資料の利用から、他館との相互利用や、情報の収集などが加わり、その対応を迫られるようになった。それにはまず、館員自体の教育、館員自身による研究が必須であり、館内に、研究会、研修会の開催や、他機関で行う図書館学や書誌学の講座などへの参加が活発になっていった。これは昭和二十五年に司書資格制度ができ、図書館員の専門職としての資質が問われるようになってきたためでもある。こうした動向をうけて、昭和三十四年十二月、『早稲田大学図書館紀要』が創刊された。

 発刊の言葉として、大野實雄館長は、図書館を彩る蔦に寄せて次のように述べている。

図書館は大学の心臓である、と言われておりますが、その機能を全うするためには地味な努力を積みかさね、好意ある奉仕を惜しまぬことと、図書、資料および図書館に関する研究に打ちこむことが必要であります。書誌学および図書館学の重要性が加わるにつれて、本館でもこの種の研究がいよいよ活潑になりその成果を公開するための紀要の刊行をするに至りました。もとより研究成果のアブストラクトではありますが、刊行を続けてゆくことによって本館利用者各位の組織的な研究に多少でも寄与することができれば幸いだと思います。小さかった蔦もただ今では仰ぎ見る大木となりましたように、この紀要も健やかに生長してほしいものです。

 紀要の内容は、書誌学・図書館学の研究成果、館蔵資料の紹介、翻刻などを主とし、時には学内研究者の寄稿を仰ぎながら、執筆者は館員を主体として発足した。

 これより先、昭和二十九年に、館内に「早稲田大学図書館学研究会」が作られ、各担当者の報告、個別研究の発表などの会合がもたれていた。その報告書として『図書館研究会会報』が出され、昭和三十三年まで、十三号を数えたが、紀要発行に伴い、吸収された形で終刊となった。また、『図書館月報』に連載されていた資料紹介記事もこの紀要に発展吸収されたのである。本紀要は、ほぼ年一回の刊行で、別冊を含めて、昭和五十五年現在第二十一号まで刊行されている。昭和三十七年には私大図書館協会の協会賞を受賞している。

 紀要の発刊を契機として、館員の館内外の研究会への参加、発表、寄稿が増加し、加えて、図書館界も情報管理の機械化とともに、コンピューター利用など新分野の開発が進み、ますますこのような研究・研修の必要に迫られるようになった。これは図書館のみの問題ではなく、大学自体、司書職の位置づけを考えることが、新制大学制度の中での急務ともなり、新入職員に対する司書資格取得の奨励(教育学部図書館学講座の聴講)や語学講座の聴講(語研・第二文学部)の便宜を図るなど、一連の施策が示されていった。そして、これが後の海外研修制度へとつながっていったのである。

七 昭和四十年代以降の図書館

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1 全学図書行政の改善へ向けて

 昭和四十年代の歴代館長は次の通りである。昭和三十九年十月、大野實雄館長退任。佐々木八郎教授が館長(第七代)に嘱任された。昭和四十四年三月、佐々木館長定年により退任。荻野三七彦理事の館長事務取扱いのあと、四月四日、平田冨太郎教授が第八代館長に就任、昭和四十五年七月、平田館長が在外研究員となって退任し、そのあとを再び荻野理事が館長(第九代)を継いだが、同年十一月、帰国後、引き続いて平田館長の再任(第十代)となった。昭和四十七年十一月、平田館長退任。古川晴風教授が第十一代館長となり、昭和五十七年十一月まで在任した。

 国内での図書館行政の進展に伴って、学内でも図書行政に対する要望・批判の声が高まり、それを受けて、理事会では「図書行政改善委員会」を発足させた。戸川行男委員長のもと二十二名の委員によって編成され、昭和三十九年二月、第一回の委員会が開かれ、以降十回の審議を経て、同年中に「図書行政改善委員会答申」として、将来の指針を示した。答申の中には、改善の必要性、図書の集中整理案、図書行政委員会の設置、図書委員会の制度化、図書業務に関する職制の確立、図書館の整備等について、図書行政全般に亘る意見を述べている。図書館では、この答申をふまえて「早稲田大学図書館改善拡充案」をまとめて、昭和四十一年八月に本部に提出した。

 昭和四十四年七月、学生会館の管理運営問題と、大学管理法問題をめぐって、学生は無期限ストに入り、大隈講堂を占拠。九月には警察の機動隊導入など、全学が騒がしく、それは翌年まで続いた。その間全学封鎖期間を除いて、スト期間中も図書館は通常どおり業務を続け、入館者の数もそう変化していない。しかし、こうした事態に、図書館も緊急の対応を迫られ、管理上、書庫の外窓に鉄扉を取り付け、また、ホールに掲げられた大観・観山筆の壁画「明暗」も鉄扉で覆い、国宝・重文指定の資料、安田靫彦筆「羅馬使節」の屛風は館外に預けるなど、資料保善に万全を期した。また、一時は館員が泊まり込むなど、館長以下、館員一体となって各種対策を採りつつ開館を行ったのである。なお、学生騒動の余波はこの後も続き、昭和四十八年十一月には、学生による書庫侵入・封鎖という事態を招いたが、館側の説得と、学生自身の自重心もあったりして、大事には至らなかった。

 この昭和四十四年の学生騒動に対して、大学は、はやくも七月、「早稲田大学大学問題研究会」を設置し、一年余にわたる全学挙げての研究・審議により、昭和四十五年八月に答申書をまとめた。この中に、図書館・図書についての答申がある。『第三研究部会報告』の「教育施設・設備」の項に、学生読書室備付けの図書の充実、学生数に対応する最低基準席数(学生実数に対し学部一〇パーセント、大学院二〇パーセント)の確保、設備・環境の改善と一名あたり〇・六坪のスペースの確保が望ましいと述べられ、さらに、

大学図書館を中核とする全学の図書行政のあり方こそ問われるべきである。すでに大学図書館は、その施設・設備において狭小化、旧制化しているうえに、図書標本購入費の学内配分、購入図書の選択と調整、司書職員の学部出向、滞貨図書の処理、研究資料の共同化、古文書・新聞などの集中活用化、マイクロフィルム化、それらを含めて全学をつらぬく図書行政のあり方の検討など、多くの問題に直面している。

と提言した。

 図書館としては、これを機会として、さらに、前記第三研究部会への答申として、昭和四十五年八月十五日付で「全学的関連における早稲田大学図書館の現状と改善の方向」を提示した。

 この答申の要旨は、前記の昭和三十九年十月の「図書行政改善委員会答申書」に引続き、さらに全般的に改善を目指したもので、「Ⅰ 大学における図書館の意義とあり方、Ⅱ 所蔵資料(特に効果的運用)、Ⅲ 職員について(特に司書職制度の確立)、Ⅳ 施設(新図書館の建設)、Ⅴ 運営と行政(特に図書行政に関する全学的機構の必要性)」などを提言している(なお、本答申は昭和四十六年三月、参考資料七点、即ち①『大学図書館施設計画要項』(文部省管理局教育施設部、一九六六)、②③『慶応義塾研究・教育情報センター計画』(同センター委員会審査室、一九六八)二種、④『東京大学附属図書館改善案趣旨・改善計画案』(同附属図書館、一九六一)、⑤『大学の研究・教育に対する図書館の在り方とその改革について(第一次報告)』(国立大学協会、一九七〇)、⑥『早稲田大学図書行政改善委員会答申書』(同改善委員会、一九六四)、⑦『大学における図書館の近代化について(勧告)』(日本学術会議、一九六四)を付載し、小冊子にまとめている。この当時の大学図書館のあり方についての見解が集約されている資料でもある)。

 さらに、昭和四十六年六月、「大学改革小委員会」から図書館に改革の具体案の要請があり、九月、総長宛に改革案を提出した。翌四十七年四月には、増田冨寿・清水司両理事と図書館との間に懇談がもたれ、全学図書行政機構と図書館協議委員会、保存書庫、部局司書増員問題、新聞センター、新図書館建設など問題点が話合われた。そしてこれらの気運を先取りして、館内には「新図書館建設計画検討委員会」が設置されたが、ほとんど活動しないまま終った。

2 図書館業務の新展開

a マイクロ資料とコピーサービス

 昭和四十五年三月、指定図書室が一九号館(現七号館)に移り、学習図書室と改称、蔵書の増加とともに閲覧席(閲覧室)も徐々に増加した。また、同年六月には、館内に事務室を設けていた大学史編集所が独立し本館から離れたので、そのあとにマイクロ資料室と雑誌室を移し、それぞれ利用し易い体制が整えられた。さらに、昭和五十年六月にはマイクロ資料室をマイクロ資料係として独立させ、すでに設置されていたリーダーおよびリーダー・プリンターに、新たに新機種として汎用性のあるマイクロフィルムのネガ・ポジ用およびマイクロフィッシュ用も加え、台数も逐次増して、八台を備えるに至った。この頃から、主要な資料が相次いでマイクロ化して市販されるようになり、本館でもその収蔵が増えていった。フィルム形態は、当初は活字と違って使いにくいと敬遠されがちであったが、図書館資料の一つとして、次第に利用者に浸透していったのである。

 文献複写業務も、昭和三十七年十二月、従来の撮影機および複写機に加え、フジ・クイックコピー、コピーフレックス、リーダー・プリンターを購入し、さらにゼロックス複写機を導入するなど利用者の要求に応えて業務の充実を図ってきた。昭和四十八年には、全学に乾式のコピーが設置されるようになり、図書館にも二台(コイン方式)が設置された。同時に文献複写室も、撮影室とコピー室に分化・拡充され、世間一般のいわゆるコピー時代到来に対応していった。以後、こうした文献のコピー利用は進み、特に雑誌論文のコピーは激しく、合冊製本されたものは、その扱い方によっては破損が甚だしく、コピーし易い厚さの製本が要望されるようにさえなった。

b 電算機による目録編集

 このように、逐次刊行物の利用が増加したのには、一つには館蔵資料の冊子体目録(和文篇)の出来と、文部省による学術雑誌目録の充実によるところが多い。学術雑誌総目録は和文篇に次いで、欧文篇の自然科学篇が昭和五十年に、人文・社会科学篇が昭和五十四年にと相次いで、コンピューターによる編集で発刊された。それに併せて本館では、このコンピューターを利用して、個別版である『早稲田大学欧文雑誌目録』(含・補遺、昭和五十五年八月現在)を刊行した。これら目録の充実は、本館の図書館月報に年一回登載する継続受入雑誌目録の当該年度の新加リストも併せて、学外の相互協力に資するとともに、学内での共同利用、購入の際の重複調査などに力を発揮した。利用者の資料検索に資することはいうまでもなく、逐次刊行物の利用が一段と増加した所以でもあろう。

c 古文書室設置

 昭和四十八年九月、一七号館(現七号館)に古文書室が設置された。館内の近世資料を含め、文書類をここに集めて、その整理・保存と利用を図るためである。こうした文書類は、家別・地域別など個別にまとまったものが多く、従来も書庫内で別置して保管していたが、その利用に不便さがあった。昭和三十八年および四十年に、大部の山本家(松江藩郡役人・地主)文書の寄贈があり、これらの整理を行う場所も必要となり、古文書室設置によって、すでに収蔵していた文書類の整理と冊子体目録の作成が順次進められることとなった(刊行目録名は別表参照)。

d 中国・朝鮮図書目録

 また、従来、中国語の図書の取扱いについては、中国語を日本語読みにして、和漢書目録と混配していたため、利用の便の上でその是否が論じられてきたが、収蔵資料も今後急速に増加することが予測されるので学内利用者との討議を経て、昭和五十年十一月、一九一二年以降の図書は、目録カードを拼音読みと日本語読みとに分けて、別配列することとした。なお、漢籍については従来通りである。同時に朝鮮語図書についてもハングル読みを加えて同様の措置を採ることにした。従って、『図書館月報』でも、昭和五十一年以降、別冊としてその年の整理分がまとめて掲載されるようになった。

e 影印叢刊

 目録類の刊行とは別に、本館蔵書の影印刊行も特記されねばならない。

 本館蔵書中には稀覯書が少くない。近時、内閣文庫・天理図書館などでは、影印による善本叢書が出版されて、広く利用に供されている。本館でもかねてから「学問研究のための基礎資料は広く公開さるべきもの」(古川晴風前館長)として計画はされていた。しかし、なかなかその機が熟さずに年を経ていたが、昭和五十年五月、資料叢書刊行に関する覚書が、早稲田大学出版部と大学の間に交わされ、昭和五十一年一月には、資料叢刊企画・刊行委員会が発足、同年十二月には『早稲田大学図書館資料叢刊一』として『日本刑法草案会議筆記』を影印刊行することができた。この原本は、昭和十八年に寄贈された鶴田皓旧蔵書の一部で、法学部杉山晴康教授を中心に研究が進められ、編集は図書館で担当した。続いて五十三年六月には『資料叢刊二』として、ジョセフ彦の『海外新聞』も発刊された。また、これとは別に図書館と限定せず、演博その他の稀覯本も集めて、本格的影印本たる『早稲田大学蔵資料影印叢書・国書篇』(第一期十六巻完結、昭和六十三年三月より第二期十六巻刊行中)が昭和五十九年三月以降継続して刊行され始めた。

 一方、こうした館蔵の資料は近来、学内はもとより、学外の展示会にも懇望されて、出品することが多い。また各種出版物への写真掲載も増えるなどのほか、学術図書出版業者による複刻の要望も多く、『早稲田大学新聞』(龍渓書店昭和五十五―七年刊)『立憲改進党々報』(柏書房 昭和五十四年刊)など、本館の協力による出版もなされている。

 以上のごとく、学術資料の公開は、種々の形でその要望に応じつつ、新しい図書館への歩みを着実に進めているのである。

3 蔵書目録の刊行と展覧会の開催

 この時期も引続き蔵書目録の刊行、展覧会の開催と目録発行が活発に行われた。以下それらを一覧表で紹介しよう。

洋書著者名目録

第五編(A~F)(一九五五―一九六五) 昭和四十三年三月

〃(G~M) 〃 四十三年十二月

〃(O~Z) 〃 四十五年十月

第六編(A~F)(一九六五―一九七五) 昭和五十四年七月

〃(G~N) 〃 五十四年十二月

〃(O~Z) 〃 五十五年六月

露文編第一編 (一八八二―一九六五) 昭和四十一年十二月

第二編 (一九六六―一九八〇) 五十六年十一月

和漢書分類目録

法律の部2 (大正十三年四月―昭和四十四年三月) 四十七年三月刊

教育の部 (明治十五年十月―昭和五十年三月) 五十年三月刊

教育の部は、昭和十九年に次回刊行分として準備され、校了の寸前まで刷上っていたのに、昭和二十年三月、大日本印刷、榎町工場において戦災にあい、すべての組版を焼失するという不運に遭った。そこで、改めて編集しなおしたので、他の目録と違って、明治から昭和までが全一冊として収められている。

雑誌(逐次刊行物)目録

和文雑誌目録

(昭和四十一年十二月末現在)昭和四十二年十月刊

逐次刊行資料目録―和漢書在籍の部

(昭和四十八年十二月末現在)昭和五十二年十二月刊

早稲田大学欧文雑誌総合目録

一九八〇年八月末現在) 昭和五十六年三月刊

文部省編 学術雑誌総合目録 人文社会科学編(一九八〇)、自然科学編(一九七九)の早稲田大学個別版に、補遺分を加えて編集。

視聴覚資料目録

第1集 レコード「作者・作曲者名」⑴

(昭和三十五年六月現在) 昭和三十六年五月刊

第2集 レコード・テープ「作曲者名・標題」⑴

(昭和四十八年三月現在) 昭和四十九年二月刊

第3集 レコード・テープ「作曲者名・標題」⑵

(昭和五十四年十二月現在) 昭和五十四年六月刊

文書目録

文書目録として第一集 方広寺関係文書、成内家文書、鍋島主水家文書・第二集 外記平田家文書、小嶋家文書が出されているが、第三集以降は、文書1・文書2~という番号をつけて整理し、現在文書まである。章末に別表を付すので参照されたい。

文庫目録

和漢書目録特刊之一・二という形で、大隈文書・小倉文庫が刊行されているが、その後、文庫1・文庫2~の番号で整理し、現在文庫16まである。章末に別表を付すので参照されたい。

大学関係展示

眼で見る早稲田大学八十五年の歩み

昭和四十二年十一月(一九号館)

大隈記念室展覧 昭和四十二年十一月

大隈文書展 昭和四十二年十一月(図書館)

大隈記念室展観 昭和四十七年十月

名品展 昭和四十七年九―十月(日本橋三越)

大学史関係の大半の資料は、図書、文書を中心に図書館に収蔵されているが(和漢書分類目録教育の部掲載)、昭和四十年に校史資料室が設置された時に一部資料を移管、以後の資料収集は主として校史資料室(現大学史編集所)が行っている。従って、大学関係の展示は共催とし、それぞれ展示の栞、または展示目録を作成している。

展示会と目録刊行

古俳書展(昭和四十一年十月)

中国画像拓本展(昭和四十年十一月)

イエイツと日本展(昭和四十一年五月)

衣笠詩文庫展(昭和四十一年六月)

歿後百五十年記念・山東京伝資料展(昭和四十一年十一月)

オーストラリア大使館寄贈図書展(昭和四十一年十一月)

浮田和民先生逝去二十年祭記念追憶展(昭和四十一年十一月)

眼で見る早稲田大学八十五年の歩み展(昭和四十二年十一月)

日本社会経済史料展(昭和四十三年五月)

モダン・イングリッシュ・リテラチャー展(昭和四十三年九月)

洋学資料展(昭和四十三年十月)

塩沢昌貞展(昭和四十六年六月)

大隈文書展(昭和四十七年十月)

科学史資料小展示(昭和五十二年六月)

名誉教授本間久雄先生旧蔵明治大正文学自筆資料展(昭和五十三年七月)

和歌文学資料展(昭和五十三年十月)

早稲田大学所蔵古文書展(昭和五十三年十一月)

第四十二回日本比較文学会全国大会記念展示

(昭和五十五年五月)

 これらの展示会は規模も大小あり、それぞれの主題によって学内各箇所および関係者の協力によって展示を行い、展示目録を刊行した。特に本間久雄旧蔵展は、昭和五十三年中に銀座松屋、名古屋、学内と三ヵ所で開催した。

 なお、昭和三十七年に参考室が新館二階に移転して以来、特設されたショーケースで随時小展示を行い、主な展示目録を図書館月報に掲載している。また毎年四月、図書館行事として行われる新入生のためのオリエンテーションでは、その一環として館蔵資料の小展示を行っている。学内各部局の蔵書目録等についてはここでは触れないが、本館出向者の努力に負うところが多い。

八 新図書館建設への道程

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1 別置書庫から本庄分館建設

 デポジット・ライブラリー(Deposit Library)とは、本来、利用頻度の低い図書、重複図書を集積し、必要な時に利用に供するのを目的とする図書館である。すなわち、最近まで狭いキャンパス内にこれらの図書資料を他の利用の多い図書と一緒に収蔵していたのが、徐々に蔵書数が増加し、本館に収蔵しきれなくなったため、別の場所に置いておこうというのである。近来、図書館界でも保存図書館は重要視され始めている。新図書館が完成したとしても、資料の加速度的増加は、いずれ近い将来に保存書庫を必要とすることを示している。本館の書架の配置の状態は、昭和三十六年頃が一応適正であったと考えられる。蔵書数約八十万冊であった当時の図書館は、新館増築時に書庫内に作られた教室も書庫に戻され、また雑誌閲覧室(座席数八席)、同整理室が新設されて、書庫内にあった新着雑誌の収納を雑誌室に移し、さらに、文献複写室を独立させ、レコード部門を七号館に移転し、参考室を第三閲覧室に開設し、約五千冊の参考図書を配架するなど、各所が整備され、書庫内にキャレルを設けるほどの余裕をみせていた。しかし、その後の蔵書増加数は毎年一万―二万冊におよび、年々書庫の狭隘さは増すばかりであった。

 この頃すでに、新図書館建設のプランは練られており、昭和四十五年八月の「現状と改善の方向」の答申の中には、新図書館建設への提言がなされている。それによって、何よりも収蔵能力の大幅に増えることを期待したからである。本館蔵書は、昭和五十年代に入ると、一つは洋書輸入の規準になるドルに対しての円高が進んだこと、もう一つには、文部省の私立大学助成費の増額と、研究施設、特に図書費の予算増加が計られたことによって、年ごとの増加率は倍増に近い勢いであった。従って、書庫内には各所に臨時書架を設け、本館地下には集密書架を設置(昭和四十七年)し、さらに、戦前からある三号館最上階の新聞別置書庫に加えて、八号館地階(昭和四十七年)、七号館三階(昭和四十七年)、七号館一階(昭和四十七年・五十年)、九号館地階(昭和五十一年)、と次々に書庫に改造して書架を増設し、分散管理せざるを得なくなった。第二学生会館地階にも一時書庫を仮設したことがある。本館内の書庫は、常に図書の移動によって棚を融通し、場所を確保するので、配架場所が目まぐるしく変り、入庫閲覧者からは、資料検索の不便を指摘されることが多かった。それゆえに、早くから新書庫増設の必要性は痛感され、歴代館長は大学への要望を口頭・文書で何回か提示し、時には理事等の実地調査、消防関係、施設関係の実査がなされたが書庫増設には至らず、学内別置箇所の増加でその手当は終っていた。

 以上の書庫の狭隘さに加えて、もう一つ問題があったのは、閲覧室、すなわち座席数の確保である。ホールを臨時閲覧室にしたり、小野講堂を利用するなど、その時々に手が打たれてきたが、試験期には図書館入口に列をなして入館を待つという状況であった。そこで、学習図書室を七号館に移し、閲覧室を新設して座席数の増加を計ったのも対策の一つである。

 この頃になると、各学部の学生読書室もようやく整備され、大学設置基準を満すことができるようになったが、このような推移を見ると、もはや館内・学内の諸設備の移動・改造による書庫拡張を図ることは望めない状況となってきている。保存図書館の建設が叫ばれるようになり、その具体的日程が論じられるようになったのは当然の帰結である。

 また、このことは、図書館ばかりではなく、本部各部局も、文書保存の規程が整備され、学内の種々の事務文書の収納場所の確保も要求されるようになり、保存図書館の建設は期せずして大学行政の優先課題の一つとなった。

 昭和五十二年、百周年記念事業案の中に、保存図書館建設が一項目としてたてられていたが、昭和五十三年の図書館長期計画小委員会の答申により、記念事業とは別に、本庄高等学院新設とともに、同地に保存書庫を建設することが決定され、大学行財政の中に正式に位置づけられた。昭和五十三年五月、「保存図書館検討委員会」が設置され、六月の第三回委員会のあと本庄書庫(仮称)設置要項が確認された。すなわち、「資料を別置保管する施設として本庄校地に書庫を設置する」こととし、名称を「早稲田大学図書館本庄書庫」と称し、図書館所管を明示して、資料の保管・運用・職員・施設・設備等に言及している。さらにこの委員会は会を重ね、六月二十七日「保存図書館設置計画に関する答申」を大学に提出、承認された。設置計画は、所管および名称から設置の位置、平面計画建物規模、構造計画、増築計画、設備計画、外構改修計画のあと、管理運営について、(イ)別置図書、資料および文書の検収・排架保管。(ロ)利用・閲覧サービスにおよび、保安、警備にわたるものであった。

 これら大学の動向に対して、館内に設けられていた長期計画小委員会でも図書館側の要望などをまとめ、具体的な建設設計へと進む中で提示していった。しかし、その後、本庄高等学院建設計画との関連から、書庫は、本庄高等学院開校(昭和五十六年四月)後に延期され、さらに、埋蔵文化財調査との関りも生じ、完成は昭和五十八年にずれこんだ。

 なお、こうした書庫建設の遅れを見ながら、本館蔵書は増加の一途をたどり、昭和五十一年度予算案では、緊急施設として本庄書庫とは別に別置書庫の設置を含めての要求を出した。その結果、本庄書庫設置までの処置として、昭和五十四年三月、倉庫会社「ワンビシアーカイブズ」に一時預けることになり、昭和五十四年七月および八月、洋書を主体に約五万冊、五十五年夏に、和漢書を主体に約六万冊、更に五十六年には洋書・雑誌・新聞約三万冊を預け、五十六年十月現在では十三万八千二百八十三冊に達した。

2 新図書館建設への動き

 昭和五十七年十月、本学苑は創立百周年を迎えた。図書館もまた百年の歳月を経たことになる。二十一世紀へ向けての発展への基礎作りという大学の長期構想の中で、教育・研究の基盤である図書館のあり方が問われ、新図書館への抱負が具現されなければならない時である。

 近来、図書館のあり方をめぐって、学術資料のシステム化、あるいは多様化した資料形態に則した、研究者への情報提供、直接的には情報検索の効率化が早くから要望され、情報化時代への突入と相まって、図書館の大学における位置づけが再び見直される時代が到来している。戦後の図書館の成長は、一応の成果を示してはいるが、さらに戦後三十年を経て、大学自体も、図書館もそれぞれに史的発展の中での転換期に直面しているのである。

 昭和五十二年二月、大学理事会は、「長期構想について」を発表、同年十月、百周年記念事業準備室の設置、昭和五十四年九月、第八回記念事業計画委員会において成案を得、十月には「創立百周年記念事業計画に関する報告書」を評議員会に提案し審議・決定された。この中に「総合学術情報センター(仮称)」にふれて、

本大学における学術情報システムを総合的に確立し、研究・教育の効果を高めるため「中央図書館」「情報処理施設」および「共同利用研究施設」を設ける。これら三者は、相互に補完機能を果すことにより、さらには各学部・大学院・研究所なども連携することによって、それぞれの機能を一層高めることになる。この意義にかんがみ、これを総称して総合学術情報センター(仮称)と呼ぶ。

このセンターが真にセンターとしての役割を果していくためには、調整・統合の機能と権限をもつ機関が設置されなければならないが、その実現は、今後、大学の長期的、経常的な検討・計画に委ねることがのぞましい。

と述べている。そして、この中の㈠「新中央図書館について」では、

現中央図書館および学内数個所に別置している付属の諸施設を統合し、本部キャンパス周辺地域に「新中央図書館」を建設する。これにより第一次学術情報の収集・集積・提供が一層効果的に行われることとともに、より高次の情報の利用が可能になるよう期待される。

約百五十万冊収蔵 千五百席設置

施設規模 約一万四五〇〇平方米(約四四〇〇坪)、所要資金 約四十五億円(付帯設備・備品等を含む)。

 この決定の後、昭和五十四年十一月、「創立百周年記念事業委員会」が設置され、さらに「記念事業実行委員会」が発足、項目別専門委員会として「新中央図書館専門委員会」が、昭和五十五年十月に設けられ、具体的な審議に入った。

 一方、図書館の中では、こうした大学側の動向に対応して、昭和五十二年十一月「新図書館建設計画小委員会」を発足させ、同年十二月にまとめた資料によると、

理事会の“長期構想”に示された総合学術情報センター(仮称)の発想は、いわゆる大学紛争の後、当時の大学問題研究会に提出した答申(四十五年八月十五日)および村井総長に提出された大学改革に関する意見書(四十六年七月三十日)の趣旨を汲みとられたものと思うが、さらに是正する必要がある。

と述べている。これを受けて、図書館では、翌五十三年一月に「図書館長期計画小委員会」を設置し、新図書館の機能、規模などについて検討を重ねた。この審議内容は、「『百周年記念事業計画の立案』について(要望)」という標題でまとめられ、同年二月三日付で大学に図書館側の要望として提出されている。同小委員会は同年五月からは保存図書館についての討議に入り、しばらく新中央図書館からは離れていたが、昭和五十四年九月以降は再び新中央図書館構想の審議に入り、翌五十五年十月、大学側の「新中央図書館専門委員会」の発足以前に一応の討議を終えた。その後は、前記専門委員会の審議に事務局として参加し、討議資料の提出、作成などを行いながら、図書館側の意見を集約していったが、新校地選定問題と不正入試事件による学内の混乱により、すべては振出しに戻った。

3 現況

 大学図書館の現況は、文部省が毎年実施している「大学図書館実態調査票」による調査によって明らかである。これらの資料は日本図書館協会刊行の『日本の図書館』にも収載され公表されている。本学の場合は、全学一元化がいわれ始めたところで、実状はまだ分散管理の状態であり、各部局の整理・未整理の冊数の出し方や、業務内容など、不統一のところが多く、確実な資料を提出しているとはいい難いが、大勢を知る上では唯一のものなので、第七十二表として、「早稲田大学図書館実態調査表(昭和五十六年度)」を章末に付して参考に供することとする。

 次に表中の主なものについて補足をしておくと、昭和五十六年五月現在の蔵書数は二百三十万冊余(内本館分百十八万六千冊)、年間資料購入費は七億七千六百万円余、座席数は四千四百四十四席、図書担当者は二百三十五名となっている。年度内受入冊数を見ると、本館、二万六千三百四十三冊に対し、全学部局を併せると十万冊を超える。今後、この推移で全学の蔵書が増加することは必至であるが、新中央図書館の完成と分館の整備により、十分対応できる見通しである。

 本館の実態調査資料は、毎年『図書館月報』『商議員会報告』『早稲田大学一覧』などに業務報告事項として「収蔵図書資料現在数」「年間受入図書資料数」などを掲載しているので、昭和五十六年分を第七十一表として示すこととする。

 図書資料の増加は、購入、寄贈を併せて、年間約二万三千余冊。時に、コレクションの購入、寄贈によって変動がある。理工系図書が、理工図書室との分担購入によって少なくなったが、新資料として、レコード、テープ、マイクロ資料などが増加し、新設された学習図書室も次第に拡充されて、購入数が増加している。学習図書は現在の収蔵書約三万冊である。

 通常の購入とは別に、特殊な資料を、寄贈を含めて入手することがある。これらのコレクションは、一般に寄贈者の名を冠して「文庫」として整理しているが、これらは、図書館の蔵書構成のうち、特色を示すものが多い。本館では、すでに「小寺文庫」「ゴルドン文庫」など、九つの文庫をもち、それぞれ特別の記号をもっているが、昭和三十七年に、文庫設置の基準を討議し、その記号も「文庫一」「文庫二」と改め、和洋を統一した。この新記号の文庫も、すでに十六を数えている。文庫は、原則として冊子目録を作成して利用に供している。

 以上述べたごとく、わが図書館は、大学百年の歴史の中で飛躍的な成長・発展を遂げ、現在に至っている。その歩みは、資料を秘蔵する時代から、海外にまで情報を求めて、資料を共有化する時代へ着実に向っている。図書館がその機能を充実させるにつれて、利用者の期待と要望もまた、日ごとに大きくなって行くであろう。図書館が、研究・教育の中枢機関としてこうした時代の趨勢にどう応えてゆくか、今後に課せられた責務は、限りなく大きいものがあるといわねばならない。

後記――所沢図書館の開設と新中央図書館の着工――

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 昭和五十五年から五十六年にかけての、いわゆる新校地選定問題と不正入試事件に端を発する学内の混乱は、百周年記念事業そのものを一時的に麻痺させたが、二年八ヵ月に及ぶ「百周年総合計画審議会」(以下、「百審」と略す)における審議の結果、計画は根本的に軌道修正され、新中央図書館建設計画はその実現へ向けて力強い歩みを開始した。この時期の図書館の活動については、本史とは別に改めて詳述されなければならないが、ここでは百周年記念事業との関連に限って、その概略を誌すにとどめる。

 昭和五十九年二月、理事会に提出されたいわゆる「百審答申」は、新中央図書館を総合学術センターの中枢機能を担うものと位置づけた上で、「研究・会議施設」を併設した第二世紀の早稲田を象徴すべき「世紀の大殿堂」ともいうべき規模と機能を有する中央新図書館の建設を提言した。理事会は、この答申を受けて、「総合学術情報センター実施計画委員会」を発足させ、実施案を練り、同年十一月の評議員会は、総工費六十億円(後に八十億円に修正)に及ぶ建設計画を承認し、ここに新中央図書館の建設計画は最終的な決着をみたのである。

 新中央図書館の建設計画は、昭和五十七年十一月に就任した濱田泰三第十二代館長の新中央図書館を全学の「フォーラム」としようとの意気込みのもとで、図書館内に設置された計三十一のワーキンググループによって作成された第三次まで実に一、一八〇頁を超える報告書を基礎にする膨大な作業を経て策定されたもので、その全館員参加の作業自体が図書館の歴史に残る一大イベントであった。当時、学内では、「いま図書館が燃えている」とささやかれていたことが、なによりも当時の図書館の熱気を伝えている。他方、百審において決定されたもう一つの記念事業たる「人間科学」部の新設に伴って、所沢キャンパス内に設置される図書館は、百審答申が各キャンパスへ設置を決定した「分館」の実質的な第一号館として、昭和六十一年五月にオープンしたが、その正式名称は「早稲田大学所沢図書館」とされ、本庄保存図書館分館とともに、いわゆる"WasedaLibraries"の一翼を担うこととなった。この所沢図書館は、分館のモデルケースとするため、新中央図書館構想のエッセンスをそこにおいて実現するよう努められたが、折から、昭和五十八年一月に就任した成田誠之助副館長を中心に開発を進めていた「オンライン総合図書館システム」たるワイン(Waseda Information NEtwork system)を導入し、そのパイロットシステムとしての運用を開始した。現在、このシステムは、わが国では最も進んだ図書館システムとして内外の注目を浴び、見学者が絶えない。

 さて、新中央図書館の建設については、昭和五十九年三月に「総合学術情報センター実施委員会」(委員長・新井隆一常任理事、昭和六十一年十一月から小山宙丸常任理事)が設置され、昭和五十九年九月に「基本構想書」が、さらに、昭和五十九年十月には「基本計画書」が確定した。これに基づいて、昭和六十一年四月には「基本設計書」(日建設計)が作成され、多年早稲田大学野球部の聖地ともいうべき「安部球場」の跡地に建設が決まり、昭和六十二年十二月一日には地鎮祭が取り行われた。この直前の十一月、図書館の活性化に大きな業績を残した濱田館長が常任理事に転出したのに伴い、教務部長であった奥島孝康教授が第十三代館長に就任し、成田誠之助副館長に加えて、野口洋二教授が新たに副館長に就任した(昭和六十二年一月)。建設は、旧安部球場跡地の敷地から出土した古代遺跡の学術調査のため、ほぼ一年間の中断のやむなきに至ったが、昭和六十三年十二月に全面着工の運びとなった。図書館では、着工を目前にして、主として、新中央図書館の運営と内部設備の実施計画を立てるために、昭和六十二年六月から八つの第八次ワーキンググループを設け、各報告書を取りまとめつつ詳細な実施計画を練り上げるとともに、昭和六十三年六月には「総合学術情報センター開設準備室」を設置した。また、国際会議場や共同研究室などから構成される付設の「研究・会議施設」についてその実施計画を策定するため、教務部、国際交流センター、建設局等と共同のワーキンググループをも設置し、実施に遺漏なきを期す体制を整えた。

 こうして、新中央図書館建設は、平成二年九月完成、翌三年四月オープンを目指してスタートを切ったのである。しかし、図書館は、立派な建物があればすむというものではない。そこに収蔵される資料の質の確保とその資料の利用態勢の確立が必要である。そこで、図書館では、現在、第一に、質の高い学術情報を収集するために収書方針を見直しており(十六―十八世紀ヨーロッパの社会科学文献である「コルベア文庫」や、貴重な中世連歌関係資料である「伊地知文庫」等の新収納)、第二に、学術情報提供に関してそのサービス向上に努力しており(オンライン総合図書館システムたる「ワイン」の開発と「学術情報システム課」および「和書データべース化事業室」の新設)、第三に、所蔵資料の整理・保存の体系化をも目指している(「明治期資料マイク・化事業室」の新設や前掲の遡及入力事業等)。新中央図書館のオープンは、早稲田の図書行政の新たな幕開けとなることであろう。

付表

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2. 年間受入図書資料数)

3. 参考業務 参考室開室日数272日(前年度261日))

4. 文献複写業務)

4.1 件数 複写室開室日数282日(前年度283日)

4.2 種類別数

第七十一表 図書館業務報告(昭和56年度)

1. 収蔵図書資料現在総数(昭和57.3末現在)

1.1 図書(冊数)

1.2 図書(部数)

1.3 特殊資料

1.4 逐次刊行物(種類数)

第七十二表①(続き))

第七十二表 図書館・図書室等実態調査(昭和56年度)①

第七十二表②)

第七十三表 図書館所蔵文書一覧(昭和五十五年三月現在)

第七十四表 図書館所蔵文庫一覧(昭和五十五年三月現在)